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家族に関する泣ける話・感動する話

ありがとう、父さん

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月22日 08:20
  • 家族

私がまだ小一の頃。
母さんと父さんはあんまり仲が良くなくって、どちらかというと母に良くして貰ってた私は、父のことがあまり好きではなかった。

そんなある日、学校に行ったとき上靴を忘れてしまった。

「仕方ない、靴下で一日過ごそう。」

と思っていたその時、父が上靴を持ってきてくれた。
父は背がとても高いが、ルックスはアンガールズの田中に似てて、はっきりいってかっこいいとはとても言えない父。
クラスメイトが私の机に集まっていたこともあり、恥ずかしさとか色々な感情で思わず、

「出て行ってよ!!お父さんが何で上靴もって来たの!!」

と強く言ってしまった。
父は、何も言わずに上靴を置いて、教室を出て行った。

家に帰ると、仕事から帰った母親がいた。

「○○(名前)、今日父さんに何か言ったの?」

すぐに、あの上靴のことだと分かった。
母に聞いた話によると、父は教室を出てから家に帰るまで、ずっとわんわん泣いていたらしい。
その日は出張の日で、東京に行ってしまったが、母には、

「○○を責めないでほしい。あの子は何も悪くない。」

と、泣きながら飛行場に行ったそうだ。

私も泣いた。
初めて、本気で父さんに申し訳ないと子供心に思った。

いつも、早く仕事に行って遅くに帰ってくる父さん。
教育なんてまるで興味ないのに、突然怒り出す父さん。
熱を出したとき、一番心配していた父さん。
不器用だけど、笑った顔は最高の父さん。
いつもお疲れ様って、何でずっと言えなかったんだろう。

その日の夜、父さんに電話を掛けた。

「わざわざ電話掛けてくれてありがとな。」

って泣きながら言ってきた。
私は泣きすぎてボロボロで、声にならない声で

「お疲れ様。仕事、頑張ってね。」

電話を切った後でも、私は罪悪感でずっと泣いていた。

父は二日後に帰ってきた。
私の好きな東京バナナをおみやげに買ってきてくれて。
東京バナナって、甘くてとってもおいしい。
でも、私が食べた東京バナナは、とってもしょっぱかった。

ありがとう、父さん。

何それ?手作り?ダサいね~、あんたのママ買ってくれないの?

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月21日 11:51
  • 家族

3歳の娘が、週末の公民館での開放プールを楽しみにしてる。

プールは一人に一つ玩具持ち込みOKなので私も娘に玩具を・・・。
ケチなのもあるがプールの為だけに買うのも何だしなぁ・・と、家にある小さいペットボトルで、いわゆるゴミ玩具を作った。
ゴミ玩具とはいえ私なりに手をかけ、ビーズを中に入れたりして可愛らしく作った。
娘もとても気に入った様で、お風呂でもそれで遊んでいた。
で週末プールにそれを持っていった娘、楽しく遊んでいたのに、どこぞのギャルママに

『何それ?手作り?ダサいね~、あんたのママ買ってくれないの?ダサイダサイ・・・。』

と言われ、娘はキョトン・・・。

しかもそのギャルママの子までが、ダサイダサイ騒ぎだした。
娘は無視して私の方にやって来たが、その子がついてきて、ダサイダサイ連呼。

娘は半泣きになって、自分の玩具をプールの外に投げ出してしまった。
娘はその日、今まで無い位におとなしくなって、何も話したがらなかった。
私は少々心が痛かったが

『新しい玩具買いにいく?』

と聞いた。
しかし娘は無言で、首を横にふった。
そして夜、娘が

『ママの玩具、投げたりしてごめんなさい・・・。また遊んでいい?』

と言った。
嬉しかった。
少し泣いてしまった。

お母ちゃんはとっても疲れてるから。いつ起きるか分かんないな

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月21日 11:48
  • 家族

日曜に、ミスド行った時の話。

若いお父さんと3歳くらいの、目がくりくりした可愛い子が席についた。
お父さんと私は背中合わせ。
以下、肩越しに聞いた会話。
(ちょっとうろ覚え)

子「どーなつ、おいしいねぇ。」
父「ん、おいしいね。」
子「おかーちゃんにも、あげたいねぇ。」
父「そだね。」
子「おかーちゃん、いつおっき?」
父「んー、お母ちゃんはとっても疲れてるから。いつ起きるか分かんないな。」
子「そっかあ。」

子「○○(自分の名前)、ゆーえんち!」
父「ん?」
子「ゆーえんちいって、かんらんしゃ!おかーちゃんいっしょ!」
父「そだね。お母ちゃんと行きたいね、三人で。お母ちゃんがおっきしたら・・・。」

子「おとーちゃん?だいじょうぶ?えーんえーん?」
父「大丈夫。えーんえーんしてないよ。お父ちゃんは大丈夫だから。」

もう涙堪えるのに必死でした。
この親子になにがあったのかは推し量ることしかできませんが、やさしいぼくちゃんと、まだ若いお父さんに幸あれ。

天国への手紙

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月16日 18:20
  • 家族

105 名前:名無しの心子知らず 投稿日:02/03/12 02:10 ID:kZUjKi9/
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。
ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。

「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです。」

こっそりと中を読んでみたら、

「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします。」

と書いてあったそうだ。
旦那は去年、交通事故で他界した。

字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・。
受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。

「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~。」

最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。
娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。

母のお弁当日記

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月16日 18:10
  • 家族

私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。

ある朝母が嬉しそうに

「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ。」

と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま学校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確かに海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に

「今日の弁当美味しかった?」

としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので

「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから。」

とついきつく言ってしまった。
母は悲しそうに

「気付かなくてごめんね・・・。」

と言いそれから弁当を作らなくなった。

それから半年後、母は死んだ。
私の知らない病気だった。
母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。

「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない。」

日記はあの日で終わっていた。
後悔で涙がこぼれた。

耳が聞こえない俺とその父の話

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月14日 12:46
  • 家族

492 :1/5:2006/02/13(月) 05:50:13 ID:Ksv7Zq5b
俺には母親がいない。
俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。

産まれたときから耳が聞こえなかった俺は、物心ついた時にはもうすでに簡単な手話を使っていた。

耳が聞こえない事で俺はずいぶん苦労した。
普通の学校にはいけず、障害者用の学校で学童期を過ごしたが、片親だったこともあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。
耳が聞こえないから何を言われたか覚えていない(というか知らない)が、あの見下すような馬鹿にしたような顔は今も忘れられない。

その時は、自分がなぜこんな目にあうのかわからなかったが、やがて障害者であるということがその理由だとわかると俺は塞ぎ込み、思春期の多くを家の中で過ごした。
自分に何の非もなく、不幸にな目にあうのが悔しくて仕方がなかった。

だから俺は父親を憎んだ。
そして死んだ母親すら憎んだ。
なぜこんな身体に産んだのか。
なぜ普通の人生を俺にくれなかったのか。

手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えて叫んだ。
ときおり爆発する俺の気持ちを前に、父は抵抗せず、ただただ、涙を流し

「すまない。」

と手話で言い続けていた。

その時の俺は何もやる気がおきず、荒んだ生活をしていたと思う。

493 :2/5:2006/02/13(月) 05:51:13 ID:Ksv7Zq5b
そんな生活の中での唯一の理解者が俺の主治医だった。
俺が産まれた後、耳が聞こえないとわかった時から、ずっと診てくれた先生だ。
俺にとってはもう一人の親だった。

何度も悩み相談にのってくれた。
俺が父親を傷つけてしまった時も、優しい目で何も言わず聞いてくれた。
仕方がないとも、そういう時もあるとも、そんな事をしては駄目だとも言わず、咎める事も、慰める事もせず聞いてくれる先生が大好きだった。

そんなある日、どうしようもなく傷つく事があって、泣いても泣ききれない、悔しくてどうしようもない出来事があった。
内容は書けないが、俺はまた先生の所に行って相談した。

長い愚痴のような相談の途中、多分

「死にたい。」

という事を手話で表した時だと思う。
先生は急に怒り出し、俺の頬をおもいっきり殴った。
俺はビックリしたが、先生の方を向くと、さらに驚いた。

先生は泣いていた。

そして俺を殴ったその震える手で、静かに話し始めた。

494 :3/5:2006/02/13(月) 05:51:48 ID:Ksv7Zq5b
ある日、俺の父親が赤ん坊の俺を抱えて先生の所へやってきたこと。
検査結果は最悪で、俺の耳が一生聞こえないだろう事を父親に伝えたこと。
俺の父親がすごい剣幕でどうにかならないかと詰め寄ってきたこと。

そして次の言葉は俺に衝撃を与えた。

「君は不思議に思わなかったのかい。君が物心ついた時には、もう手話を使えていたことを。」

たしかにそうだった。
俺は特別に手話を習った覚えはない。
じゃあなぜ・・・。

「君の父親は僕にこう言ったんだ。

『声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通の生活を送れますか?』

驚いたよ。
確かにそうすればその子は、声と同じように手話を使えるようになるだろう。
小さい頃からの聴覚障害はそれだけで知能発達の障害になり得る。
だが声と同じように手話が使えるのなら、もしかしたら・・・。
でもそれは決して簡単な事じゃない。
その為には今から両親が手話を普通に使えるようにならなきゃいけない。
健常人が手話を普通の会話並みに使えるようになるのに数年かかる。
全てを投げ捨てて手話の勉強に専念したとしても、とても間に合わない。
不可能だ。
僕はそう伝えた。
その無謀な挑戦の結果は、君が一番良く知ってるはずだ。
君の父親はね、何よりも君の幸せを願っているんだよ。
だから死にたいなんて、言っちゃ駄目だ。」

495 :4/5:2006/02/13(月) 05:52:20 ID:Ksv7Zq5b
聞きながら涙が止まらなかった。
父さんはその時していた仕事を捨てて、俺のために手話を勉強したのだった。
俺はそんな事知らずに、たいした収入もない父親を馬鹿にしたこともある。

俺が間違っていた。
父さんは誰よりも俺の苦しみを知っていた。
誰よりも俺の悲しみを知っていた。
そして誰よりも俺の幸せを願っていた。

濡れる頬をぬぐう事もせず俺は泣き続けた。
そして父さんに暴力をふるった自分自身を憎んだ。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。
あの人は俺の親なのだ。

耳が聞こえないことに負けたくない。
父さんが負けなかったように。
幸せになろう。
そう心に決めた。

今、俺は手話を教える仕事をしている。
そして春には結婚も決まった。
俺の障害を理解してくれた上で愛してくれる最高の人だ。

父さんに紹介すると、母さんに報告しなきゃなと言って父さんは笑った。
でも遺影に向かい、線香をあげる父さんの肩は震えていた。

そして遺影を見たまま話し始めた。

496 :5/5 聞いてくれてありがとう :2006/02/13(月) 05:53:09 ID:Ksv7Zq5b
俺の障害は先天的なものではなく、事故によるものだったらしい。
俺を連れて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んだそうだ。
運良く父さんは軽症ですんだが、母さんと俺はひどい状態だった。
俺は何とか一命を取り留めたが、母さんは回復せず死んでしまったらしい。

母さんは死ぬ間際、父さんに遺言を残した。

「私の分までこの子を幸せにしてあげてね。」

父さんは強くうなずいて、約束した。
でもしばらくして俺に異常が見つかったそうだ。

「あせったよ。お前が普通の人生を歩めないんじゃないかって。約束を守れないんじゃないかってなぁ。でもこれでようやく、約束・・・果たせたかなぁ。なぁ・・・母さん。」

最後は手話ではなく、上を向きながら呟くように語っていた。
でも俺には何て言っているか伝わってきた。
俺は泣きながら、父さんにむかって手話ではなく、声で言った。

「ありがとうございました!」

俺は耳が聞こえないから、ちゃんと言えたかわからない。
でも父さんは肩を大きく揺らしながら、何度も頷いていた。

父さん、天国の母さん、そして先生。
ありがとう。
俺、いま幸せだよ。

最近のあたしの話

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月 6日 08:36
  • 家族

疲れていた。
平均睡眠時間4時間。
本当に疲れていた。

出たくて出た実家。
帰る訳にはいかないし、帰りたくなかった。

その時母から電話がきた。
取り留めのない話をしながら、ふと、母が言った。

「頑張らなくていいんだよ。」

泣き声が聞こえないように声を押し潰しながら、

「解ったよ。」

と言って電話を切った。
あたしは声を出して泣いた。
わんわん泣いた。

泣き止んで、飲みかけのビールを一気に飲み干して、布団に入った。
明日も頑張ろう。
明日も頑張ろう。
そう強く思い、ゆっくり眠った。

妹を守る兄

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月 3日 02:02
  • 家族

中学の頃、学校でいじめにあっていた、教室に入れなくていつも保険室に通っていた。

いじめの事は家族にも言っていない、ただ私のワガママで保険室に通っているだけ、と教師、両親は思っていた。

いじめは段々とエスカレートし、また陰湿だった・・・。
でも回りに心配かけたく無くて、いつも無理して笑っていた。

辛くて孤独でどうしようも無くて、死んでしまおうと決心した日、高校生の兄が修学旅行から帰って来て私にお土産をくれた。

どこかのドライブインに売っているような、キーホルダーのオルゴール。
長崎に行って来たハズなのに・・・。

幼い頃から、兄と常に一緒にいたが、兄にはいつもイジメられた記憶しか無い。
だから、長崎のお土産を私にだけはくれなかった、そう思った瞬間、学校でのイジメと重なり、私はそのお土産を

『こんなのいらない!!』

と投げつけてしまった・・・。

すると、その衝撃でオルゴールがなった、題名は知らないけど

『涙など見せない強気なアナタをこんなに悲しませてるのは誰なの?』

って言う歌詞の曲が・・・。

兄は、何も言わずにそのお土産を拾おうとしゃがんだ、兄は泣いていた。
初めて兄が泣いているのを見て、呆然としていると、兄がポソリと言った。

『お前をイジメて良いのは、兄貴の俺だけだ、それ以外のヤツがお前をイジメるのは許せない、俺は知ってるから、お前が家で我慢して笑ってる事。小さい頃からいつも俺の前で泣いてたんだから、我慢なんかしなくて良いんだぞ。俺は、イジメてばかりの兄貴だけど、他人に妹をイジメられて黙っていられる兄貴じゃないからな。』

その言葉を聞いて、私は号泣、学校のイジメの事を全て吐き出しました、泣きすぎて喘息で咳き込みながら、全部。

兄は横に座って聞いてくれていました。
全部話し終わると、

『よく頑張った。』

と一言言って頭をポンポンと撫で、

『今日は寝ろ、明日は学校行かなくて良い。』

と言って部屋から出て行きました。
暫く一階で母親と兄が会話している声が聞こえてきました。

翌日から暫く学校を休み、再び登校すると、イジメはかなりされなくなっていました。
教師に聞くと、兄が中学の教員室に乗り込みぶちギレて行った様でした。
高校の生徒会長が乗り込んで来た為、教師も慌ててイジメに関して動き、結果私を含め多人数がイジメの被害にあっていた事も判明しました。

その何年か後、私は旦那と知り合い、結婚式を挙げた時、兄貴は

『小さい頃から、俺は妹をイジメて泣かして来た。でも、お前をイジメるヤツは俺は許さない。どうかこれからは、俺の変わりに守ってやってくれ。』

と。

兄ちゃん、今日は兄ちゃんの結婚式だよ、お返しに今日は私が兄ちゃんを泣かすから。

うちのかーちゃん

  • Posted by: 管理人
  • 2012年2月 2日 16:50
  • 家族

うちのかーちゃん
おやじの酒乱で離婚。
以後3人の子を一人で育てる。

姉貴二人遠くに嫁ぐ。
俺とかーちゃん二人暮らし。

かーちゃん、酒を飲むようになる。
度を越すようになる。
俺に怒られるから隠れて飲む。
友達から

「電話したらお前のかーちゃんまたよぱらってたぞ。」

と言われ、怒ってかーちゃんを蹴っ飛ばす。

「クソババー、てめー電話出るなこの!!」
「お母さん飲んでないよ。」

ろれつが回らない言葉で俺に許しを乞う。
それを聞いてまたかーちゃんの頭を思い切りひっぱたく。

そんな日が続いた。

結婚が決まった。
嫁と2人きりで海外で挙げた。
かーちゃんには式の写真とビデオをやっただけ。
嫁にも極力合わせないよーにしてた。

別々に暮らして半年。
ある日夜遅く保険の証書を取りに実家に帰ると真っ暗な部屋の中、テレビのあかりだけ。
その前にかーちゃんがボーッと正座していた。

「こんな夜中に何やってんのよ。またさけ飲んでるのかこの野郎っ!」

叩こうと思ってふとテレビを見ると、俺の挙式のビデオだった。

「叩かないで。ごめんね。ごめんね。」

ろれつが回らない言葉で這いつくばって懇願するかーちゃん。
俺はぼーぜんとした。

毎晩一人ぼっちでこのビデオを見てたのか・・・。
ごめんねお母さん。
本当にごめん。
もう叩かないから。
来週嫁さんと一緒にどっかおいしいものでも食べに行こうよ。

息子の結婚と嫁の話

  • Posted by: 管理人
  • 2012年1月30日 12:52
  • 家族

165 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/14(土) 07:21:00
この度、息子が結婚することになった。
お恥ずかしながら出来婚というやつだ。
で、息子の嫁さんの父上が、息子と俺と3人で飲まないかと仰ってくれた。

実は結構ガクブルだった。
もしかして息子の珍子もがれるんじゃね?とも思ったりもした。
あちらさん、若くして奥様と離縁なさったとのことで、男手一つで20年以上育ててきたなんて言うからさ。

そうとう娘のこと可愛いだろうからね。
俺も、同じように息子が小さい時に嫁と別れて男手一つで育ててるから、それがどんなに大変なことか、ちょっとくらいは分かるつもりだ。

そんな愛の結晶、俺の馬鹿息子にかっさらわれていくなんて、俺がその立場だったら間違いなく相手の珍子もぎに行く自信がある。
息子の背中叩いて覚悟決めろやと言い聞かせ、飲みに行くことになった。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/14(土) 07:21:47
会話も全然発展しないし、息子は青ざめたまんまだし、重たい空気のままだったけど、それぞれ飲み進めてるうちに、無口だったあちらさんが結構饒舌になった。

「息子くんのおかげで娘があんなに綺麗になった。」

なんて嬉しそうに語ってくれるから、俺も調子に乗ったんだよ。

「妻にも、あんな可愛い子がお嫁さんに来るって見せたかった。」

ってさ。
酒のせいかあちらさんも遠慮なく、多分思いついたまま

「どうして別れたのか?」

と聞いてきた。

息子にはずっと母さんは出かけて帰ってこないんだと聞かせてた。
息子がじっとこっち見てるのが分かった。
俺も酔っているせいか、その場の雰囲気なのか、何の抵抗もなく、そのことを話した。

ある朝、嫁が起きてこなかったこと、
まだ生後間もない息子が泣いてたこと、
俺は何も気にとめないで出勤したこと、
残業して帰ったら家は真っ暗なままで息子が泣き叫んでいたこと、
やっと様子がおかしいことに気づいて救急車を呼んだけど、
乗せられていった嫁は帰ってこなかったこと、
嫁を見た救急隊員たちが首を振ったのをしっかり見ていたことを、

話した。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/14(土) 07:26:13
それを聞いてひたすら泣いてる息子に、

「嫁さんを大事にしろ、子供を大事にしろ。嫁がいなくなるまで赤子の抱き方も知らなかった俺みたいな奴になるな。」

と、あとははっきり覚えてない、色々なことを話した。

あちらさんもぐじゃぐじゃに泣いてた。

俺は嫁がいなくなって、毎日毎日嫁の後を追うことだけ考えてた。
息子が幼稚園出たら行こう、小学校出たら行こう、進学できたら行こう、
息子がひとり立ちしたら、伴侶見つけられたら行こう、と考えてた。
延びに延びて、孫の顔見るまで行けなくなっちまったなあ。

息子たちの式には、俺の嫁の席が用意してくれるとのことだ。
きっと嫁は来るだろう。

母さんの涙

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月28日 11:36
  • 家族

泣ける話多いな・・・。
自分も、他人が読んだらなんとも思わないだろうけど、感謝の気持ちを込めて書かせてもらいます。

うちは親父が仕事の続かない人でいつも貧乏。
母さんは俺と兄貴のためにいっつも働いてた。
ヤクルトの配達や近所の工場とか、土日もゆっくり休んでたっていう記憶は無いな・・・。

俺は中学・高校の頃はそんな自分の家庭が嫌でしょうがなかった。
夜は遅くまで好き勝手遊んで、高校の頃は学校さぼって朝起きないことも多かった。
んで、高校卒業してすぐの頃、仕事もしないで遊んでて、当然金は無い。

そこでやっちゃった。盗み。詳しくは言えないけど、まあ、空き巣だね。
ただ、小心者の俺はその日に自首したんだ。良心が、とかじゃなくてびびっただけw
警察に俺を迎えに来た母さんはほんとに悲しい顔してた。でも泣いてはなかった。
一緒に家庭裁判所行ったときも、割と落ち着いてたね。

裁判所の帰りの電車で俺あやまったんだ。
ボソッと

「ごめん。」

て。
そしたら、

「お母さんこそお前に申し訳ないよ。ろくに小遣いもやれないで・・・。本当にお前がかわいそうで・・・すまなくって・・・。」

俺、電車の中でぼろぼろ泣いた。
声出して泣いてたと思う。
何やってんだ俺。何やってんだ俺。
って思って、情けなくて申し訳なくて・・・。
ここでも母さんは泣いてなかったな。
ただじっとうつむいてただけだった。

俺はその後必死になって勉強した。
昼はスーパーでバイトして、夕方からは受験勉強。
そして翌春に何とか大学に合格。
バイトは続けながら大学生活が始まった。

でも、母さんはなんとなく俺のことがまだ心配なようだった。
母さんも相変わらず働きづめだから、そんな生活の俺とはあんまり会話がなかったし、家が貧乏なのに変わりは無かったしね。

だから俺、入学後も一生懸命勉強した。自分の為っていうより、母さんを安心させてやりたかった。
それで大学1年目の終わりに、

「母さん。ちょっと見せたいものがあるんだ。」

そう言って紙を一枚渡した。
大学の成績通知書。
履修した科目が全部『優』だったから(マジ)。
最初は通知書の見方がよくわかんなかったみたいだけど、説明したら成績が良いのはわかったみたい。

母「へえ、すごいね・・・母さん科目の名前みてもよくわかんないけど、すごいんでしょ?これ。」
俺「すごいかどうかはわかんないけど・・・。」
母「すごいね。・・・偉いね。」
俺「だからさ・・・こんな物だけで偉そうに言うのもあれだけど・・・俺、もう大丈夫だから。母さんを裏切ったりしないから。」

そしたら、母さん泣き出しちゃった。
もう号泣。
そこで気付いたんだけど、俺、母さんが泣くのを見るの初めてだった。
きっと、何があっても子供には涙は見せないようにがんばってたんだと思う。
それを思ったら俺も泣き出しちゃったw
母さんより泣いてたかもw

はあ・・・親孝行しなきゃな・・・。
長文すいませんでした。

妹の日記

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月25日 17:02
  • 家族

510 名前:病弱名無しさん 投稿日:04/10/25 20:27:57 ID:aJy115U3
流れ的に家族の話ってことで、少し長いが俺の語りも聞いて欲しい。
ウザかったらスルーしてくれ。

うちの家族は父母俺妹の4人。
妹は俺の1コ下。
年子の弟妹なんて単に煩わしいか、逆に友達みたいな感覚とよく聞くが、うちの妹の場合は少々違った。
面倒見てないと危なっかしくて仕方がない。
なんか知らんがこいつはばかなのだ。

いや、リアルに頭が足りないとかではない。
日常生活は問題ないし、偏差値的には学区で2位の公立校でちゃんと上位層を維持してる。
俺は同じ高校でギリ中の下だが・・・。
妹がばかなのは、他人の悪意に極端にうといからなのだ。

例えば俺と妹のどちらかが夕食を作らなければならないとする。
俺は当然めんどくさいので妹にやらせることにする。

「おい、夕食当番じゃんけんしようぜ。ただしめんどくさいから、グーチョキパーでお互い違うの出したら俺の勝ち、同じのだったらお前の勝ち。一発で決まるし公平だ。いいな?」
「んー、うん。いいよ。」

疑問もはさまずに笑顔でこんな返事をする奴なのだ。
ばか。
しかもその時運悪くあいこが出た。
妹の勝ちだ。
そこで俺はこう言う。

「お、お前の勝ち。じゃあ残念だが夕食当番はお前に譲ってやる。がんばれよ。」
「え、えぇ?あ、うん、そういう意味だったんだ・・・うん。わかった。ありがと兄ちゃん。」

そのまま笑顔で普通に台所に向かった。
ばかだ。

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お兄ちゃんの嘘

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月19日 11:46
  • 家族

5つ上の兄の居る妹です。
私の家庭環境が>>299(世の中には両親が亡くなって、兄妹二人や姉弟二人になってしまった方もいます。)に似た状態で、兄は高校にも行かず働いて私を高校大学まで行かせてくれました。

小中高と保護者参加の学校行事の時は必ず参加してくれて、休みの日はお弁当を作って動物園や遊園地、誕生日には県外に旅行へ連れて行ってもらって、バースディプレゼントも貰ってました。
普通の家庭の子供と同じように、多分、それ以上に愛情を注いでもらったと自信を持っていえます。

兄に

「お兄ちゃん、私も来月から働くんだし大検取って大学行ってみない?私、学費出すよ。」

と言ったら、兄は笑顔で

「俺、頭悪いし勉強嫌いだから止めとくよ。それに今の仕事って嫌いじゃないから。」

と言われました。
嘘。
私が居ない時や寝ている間に私の教科書で勉強しているのは知っている。

お兄ちゃんの嘘の続きを読む

野草摘み

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月 6日 16:05
  • 家族

子供の頃、父が飲んだくれだった我が家は極度の貧乏だった。
しかし明るい母は、4人の子供とアル中の父を抱え朝は築地の魚市場、昼は貝類加工場、夜は寿司屋の店員と3つの仕事をこなしていて、寝てる間に帰って来る、目が覚めるともういない、の繰り返しで、1週間のうち、貝類加工場が休みの土曜日の昼間だけしか、顔を見る事が出来ない毎日だった。

そんなある土曜日、母がまだ就学前だった私を野草摘みに連れて行ってくれた。
普段、母と過ごす時間が無い私には春の野原で母と2人、つくしやフキを摘んだ事が本当に楽しく嬉しかった。

それから数十年が経ち、飲んだくれだった父は他界し子供達も大きくなった。

今では昔の苦労が嘘のような楽隠居生活を送る母に、ふっと野草摘みの事を思い出し

「あ~ちゃん(母の事)と野草摘みに行ったよね!普段は顔も 満足に見られなかったから、あの時は本当に楽しかった!」

と、何気なく言った私に

「あの頃は貧乏だったからね・・・。あんな野っ原に生えてる草まで食べさせて・・・すまなかったね。」

と母が泣いた。
子供だった私には、ただの楽しい野遊びだったけど、母に取っては子供達を飢えさせない為の苦肉の策だったんだね。
ありがとう。

それ以来、毎年この季節になると、あの楽しかった野草摘みを思い出しては、ちょっと胸がつまる・・・。

あ~ちゃん長生きしてね!

お弁当のにんじん

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月 5日 15:23
  • 家族

俺の母親は、俺が2歳の時にがんで死んだそうだ。
まだ物心つく前のことだから、当時はあまり寂しいなんていう感情もあまりわかなかった。

この手の話でよくあるような、「母親がいない事を理由にいじめられる」なんて事も全然なくて、良い友達に恵まれて、それなりに充実した少年時代だったと思う。
こんな風に片親なのに人並み以上に楽しく毎日を送れていたのは、やはり他ならぬ父の頑張りがあったからだと今も思う。

あれは俺が小学校に入学してすぐにあった、父母同伴の遠足から帰ってきたときのこと。
父は仕事で忙しいことがわかっていたので、一緒に来られないことを憎んだりはしなかった。
一人お弁当を食べる俺を、友達のY君とそのお母さんが一緒に食べようって誘ってくれて、寂しくもなかった。

でもなんとなく、Y君のお弁当に入っていた星形のにんじんがなぜだかとっても羨ましくなって、その日仕事から帰ったばかりの父に

「僕のお弁当のにんじんも星の形がいい。」

ってお願いしたんだ。

当時の俺は、ガキなりにも母親がいないという家庭環境に気を使ったりしてて、

「何でうちにはお母さんがいないの?」

なんてことも父には一度だって聞いたことがなかった。
星の形のにんじんだって、ただ単純にかっこいいからって、羨ましかっただけだったんだ。
でも父にはそれが、母親がいない俺が一生懸命文句を言っているみたいに見えて、とても悲しかったらしい。
突然俺をかき抱いて

「ごめんな、ごめんな。」

って言ってわんわん泣いたんだ。
いつも厳しくって、何かいたずらをしようものなら、遠慮なくゲンコツを落としてきた父の泣き顔を見たのはそれがはじめて。
同時に何で親父が泣いてるかわかっちゃって、俺も悲しくなって台所で男二人抱き合ってわんわん泣いたっけ。

それからというもの、俺の弁当に入ってるにんじんは、ずっと星の形をしてた。
高校になってもそれは続いて、いい加減恥ずかしくなってきて

「もういいよ。」

なんて俺が言っても、

「お前だってそれを見るたび恥ずかしい過去を思い出せるだろ。」

って冗談めかして笑ったっけ。
そんな父も、今年結婚をした。
相手は、俺が羨ましくなるくらい気立てのいい女性だ。
結婚式のスピーチの時、俺が「星の形のにんじん」の話をしたとき、親父は人前だってのに、またわんわん泣いた。

でもそんな親父よりも、再婚相手の女の人のほうがもらい泣きして、もっとわんわん泣いてたっけ。
良い相手を見つけられて、ほんとうに良かったね。
心からおめでとう。
そしてありがとう、お父さん。

俺たち家族

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月 5日 15:15
  • 家族

俺と弟、おやじ。
これが俺の物心ついた頃からの家族だった。
かあちゃんがいない理由は小学生の時になんとなく。
かあちゃんの親がおやじに額を畳にこすりつけるような詫びをしにやってきたのは知っているが、それ以上は知らない。

ていうかどうでもよかった。
トラック乗りのおやじもいつ家に帰ってくるのかわからん男だったから、いない時はじっちゃんのアパートに、いる時は3人で家に、という具合だ。

じっちゃんとこと違うのは、うちの方が雨漏りがたまにするくらい。
大した違いはない。

「兄弟一致団結して」というのは嘘八百。
喧嘩は絶えず。
おやじがいてもいなくても関係なく、殺伐とした兄弟だったように思う。

そんなある日、おやじが土日2日間休みが取れたからと言う。
そしておもちゃ屋につれてってやると言う。

「おもちゃ屋かよ、別に欲しい物なんてねーよ。」

と思ったが口には出さない。
弟も弟で、興味ない様子。
果たして休日を有意義に過ごせるのだろうか?

日頃薄汚いおやじが朝から床屋に行った。
俺と弟はじっちゃんの家に、前もって用意してもらった新しい服を取りに行った。
3人が合流したのは10時30分。
こぎれいな3人に汚い黄色の軽自動車で向った。
到着。

とりあえず昼を食って弟と距離を保って歩いていると後ろを歩いていたおやじがいない。

「いねーじゃねーか、おやじが迷子になるなよな。」
「そうだな。」

弟と意見が合った。
探していると、見つかった。
ボードゲームのコーナーにいる。
しゃがみこんで何かを手にしている。

「将棋セット」

駒と折りたたみの板のセットだ。
将棋?
なんで将棋なんだよ、と思った俺。

とりあえず、俺はその後、学校で知ってるやつに聞いてメモして家に帰った。
弟はとっくに将棋のことなんか忘れてテレビを見ている。
嫌がる弟に強制的にルールを覚えさせ、ひとまずやってみた。
3分で終わった。
勝負がついたからではない。
つまらんくなって弟が駒を投げたからだ。
その日から将棋セットは押し入れの奥へ行った。

今日は喪主である俺がいろいろと動いた。
身内もほとんどいない俺たち家族だが、盛大に行いたいとの俺たち兄弟の考えで、おやじにとって満足できる出来映えだっただろう。
弟は仕事先の海外から家族と共に、俺は離婚した1ヶ月後にその日を迎えた。
おやじは体を壊したのが3年前、寝たきりになっってしまったのが半年程前だ。
痴呆?みたいなものにもなっていたらしい。
苦しまずに逝けたのが幸せか。

棺を前にして俺と弟は話しをした。

「あの時のこと覚えてるか?将棋セット」
「覚えてる。おやじ、嬉しそうだったな。」

急に俺は、探して見たくなって押し入れを探した。
すぐ見つかった。
弟と一緒に箱から開けてちょっとやってみようかという話しになった。
駒を並べ終え、始まって10分ほどした時、ヘルパーのE子さんが立ち止まったままこちらを見ていたのに気がついた。
E子さんにはおやじのことで本当に世話になった人だ。

「あ、どうかなさったんですか?」

俺は聞いた。

「お父さま、今年の初め頃でしたかしら、その駒を握って涙を流しながら、仲良うしろよ、仲良うしろよ、とおっしゃっていたもので・・・。」

みるみるうちにE子さんの顔が紅潮している。
目の前の弟は下を向いたまま動かない。
俺は、箱の中に入っていたおやじが自分で鉛筆で書いた駒の動き方のメモを見ながら泣いた。

おやじ・・・。

うまく書けないが、これが俺たち家族でした。

妹よ

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月 4日 17:18
  • 家族

770 :本当にあった怖い名無し :04/10/26 16:14:48 ID:aFLRHW85
俺の妹さ、俺が17の時死んだのよ。
今からもう8年前。
まだ6歳でさ。
末っ子で、男兄弟ばっかだから、兄貴も弟も猫かわいがりしてたね。

でも、元々病弱でさ、ちっちゃくてさ。
でも、めちゃくちゃ可愛くてさ、ちょっとしたことでも、泣くんだよ。

「兄ちゃん、兄ちゃん。」

って、いっつも俺の後ついてくんの。
街にあるケーキ屋のショートケーキが大好きでさ、一週間に一回ぐらい、バイト代で買ってやってた。

食ってるとき

「おいしいー。」

って笑う妹が、とっても可愛くてさ、すっげぇ可愛くて。
妹が発作で倒れたって聞いて、俺、学校からバイク飛ばして中学校で弟拾って即効病院に行った。
色んな機械つけて、妹は寝てた。
おかんとばあちゃんが

「もうだめだぁ。」

って、なんか、じいちゃんに拝んでるし。

「シノを連れてかんといて!お願いや。」

って、じいちゃん、妹生まれてすぐに亡くなってる。
シノを抱くことなく逝ってしまったじいちゃんは、死ぬ間際まで

「シノを抱っこしたいなぁ。」

って言ってた。
俺が行って

「シノ!シノ!!」

って呼ぶと、意識が戻った。

「にーやん、あんねー、シノ、ショートケーキ食べたいん。」
「いっぱい買って来てやるから死ぬな!寝るな!おきてんだぞ!」

って、俺はケーキ屋からあるだけのショートケーキ全部買ってきた。
でも、妹死んじゃったよ。
俺がショートケーキ買って来て、病室のドア開けると、妹が笑ってて、

「買ってきたぞ!シノ、食って元気出せ!」

って、一口食わしたら、

「おいしいー・・・。ありがと、にいや。」

って、笑って目を閉じてソレっきり。
すぐに、ピーーーーって、機械が。
電気ショックとかやっても無駄だった。

棺おけに入るときに、気に入ってた、おかんが作ってやった紺色のフリルのいっぱいついたドレス着てた。
ばーちゃんが作ってやったお手玉もいれてやった。
お気に入りのテディベアも入れてやった。
俺、一年ぐらい立ち直れんかった。

壁にさ、誕生日に妹がくれた「にーやん達の顔」って絵があってさ、まだ六歳だから下手糞でさ、でも、兄弟で笑ってんの。
俺と一番上の兄貴の間で、カチューシャ付けた妹が笑ってる絵。
もう、ソレ見るたびに泣けて来るんだよ。

でも、我が家でな、ちょっと不思議なことが起きるようになったのはそれからなんだ。
夜中に、ばーちゃんの部屋から声がすると思ったら、ばーちゃん(ボケてなくて、霊感あり)が、

「あぁ、じーさん、紫乃連れてきてくれたん。そう、その服気にいっとんのな、あぁ、そうかそうか、これて嬉しいか。」

障子の隙間から見ると、ばーちゃんが笑ってんの。
相槌まで打ってさ。
テーブルにお茶とジュースまで出してさ。

妹の好きな、地元の古い店が作ってる瓶のサイダー。
俺、ついついばーちゃんの部屋あけちゃった。
そしたら、ばーちゃん、慌てもせずにさ

「ヒロトー、じいちゃんとシノがそこに来とる、挨拶せぇ。」

って、俺にまでお茶出すし。

「これ飲んだら、かえるとこまで帰りんさい。」

って、ばーちゃんは笑ってた。
まぁ、それくらいは序の口。
おかんが台所で、弟のおやつにホットケーキ作ってたら、作っといた一皿の、一枚の半分だけが無くなってんだって。
歯型ついてて。
どう見てもシノの口の大きさでさ。

「あの子、ホットケーキも好きやったからなぁ。」

って、ばーちゃんもおかんも涙してんの。
あとは、家に居るときに、シノの声を聞いたことは、全員ある。
おとんが、

「きっと、この家が好きで出て行かないんだろう。」

って言ってたな。
で、就職するからって東京で一人暮らし始めた。

その頃、好きな女もできて、告白しようか迷ってた。
ある日、夢ん中、妹とよく行った公園で、二人でベンチに座ってた。

「にーやんは、あの人すきなの?」

おかんが作ってやったフランス人形みたいなドレス着てさ、妹が笑ってんの。
向こう側のベンチに、俺の好きな人が座って、本を読んでて、それを指差しながら。

「うん。」

って、俺が答えると、

「大丈夫、シノが何とかしたげる。」

って笑ってた。

んで、しばらく経ったある日さ、その女の人から告白されてしまった。
それから、そのまま今に至るってわけで。
結婚して、しばらく経って、実家に、シノとじーちゃんの墓参りに行った時、墓前でさ、俺の奥さんが言うんだよ。

「そういえばね、不思議な事があったの。」
「なに?」
「あなたに告白する前にね、不思議な子にあったの。新宿で買い物してたら、ちっちゃい女の子に声をかけられてね、紺色に白いフリルのドレス着てて。でね、『おねーさんは、にーやんのこと好きですか?』って言われたの。『にーやんってだれ?』って聞いたら、『大丈夫ー、おねーさんは、にーやんのお嫁さんになる、うちのにーやんもおねーさんの事好き。』って言って、どっかに消えちゃったの。でね、その子が居なくなった後、不思議なんだけど、あなたの顔が頭に浮かんだの。」
「シノ・・・。」

しか、思い当たる所は無い。
そのことを、嫁に話すと、嫁は

「まさかー。」

って笑ってたが、実家に戻って、茶の間に飾ってある、妹の写真見て、

「この子!!」

って、驚いてた。
あぁ、シノがくっつけてくれたんだ。
で、またしばらくして、嫁が妊娠。
でも、ちょっと危なかった。

ある日、病院で、嫁の看護しながら、眠っちまった。
そしたら夢に、またシノが出てきた。

「にーや、おとーさんになるの?」
「そうだね。」

また、公園だった。
今度は俺の横に、腹が大きい嫁が座ってた。
たまごクラブ読みながら。

「シノ、にーやの子供、守る。」

って言って、
嫁も、

「お願いね。」

って言ったら嫁の腹の中に入ってっちまったよ。
むしろ、消えたの方が正しいのか。
目が覚めて、朝、嫁にその事を話したら、嫁も、同じ夢を見てたらしい。
で、嫁も

「お願いっていったら、おなかン中入ってっちゃった。」

って笑ってて。
無事、生まれました、我が子。

健康な、女の子です。
今年三歳になります。
しぐさが、妹に似てます。

笑い方とか、喋り方とかね。
あと、性格とか、好きな物とか嫌いなものとか。
っていうか、妹の生まれ変わりだろうな。
っていうか、俺、親ばかになりました。
麻雀も、パチンコもやめたし、家にも早く帰るようになったし。

俺の実家に帰ると、もう、皆、猫っ可愛がり。
ばーちゃん大興奮。
おやじ、初孫の為にデジカメとデジタルビデオカメラ買いました。
おかん、連れてくと離しません。

とても元気で、いたずら盛りの我が娘、元気に育てよ。

まぁ、平和です、我が家。

いってきます

  • Posted by: 管理人
  • 2011年10月 3日 10:38
  • 家族

もう二十年位前の話です。
私は小さい頃親に離婚されて、どっちの親も私を引き取ろうとせず、施設に預けられ、育てられました。
そして三歳くらいの時に今の親にもらわれたそうです。

当時の私はその自覚などしておらず、記憶は無く、その親を本当の親と思って中学二年まで過ごしてきました。
そして、突然の父との別れが訪れました。
脳梗塞で帰らぬ人になりました。

そして、その最悪の時に、

「私とその親は家族ではない。」

ということを、親戚の方から偶然にも知ってしまったのです。

葬儀のあと、私は母を問い詰め、本当の事を聞きました。
その時を境に、私は母を嫌いになりました。
死んだ父でさえも嫌いになりました。
多分、裏切られたとか思ったんでしょう。
元々家が裕福ではありませんでした。
ですから父が死んでしまったので、母が働きに出ざるを得ませんでした。

母は、朝は近くの市場で、昼から夜にかけてはスーパーで働きました。
それもこれも全て、私のためのものでした。
ですが、当時の私には、それすらもうっとうしく思えてなりませんでした。

時には、登校の時間と母が市場から帰ってくる時間がちょうど重なってしまい。
友達と登校していた私は、ボロボロになった母と家族であるということを、友達に知られたくなく

「いってらっしゃい。」

と言う母を無視しては、友達に

「誰あれ、気持ち悪いんだけど。」

という悪口すら言っていたものでした。
それを察してか、次の日にはわざと目を伏せ、足早に私とすれ違っていきました。
でも、それでも、母は何一つ文句をいわず働いてくれていました。
そんな日が一ヶ月くらい続いたと記憶しています。

そんな雨の日、雨合羽を着て市場から帰ってくる母とすれ違いました。
当然無言です。
その姿はなんとも淋しく、哀しく、辛そうに見えたのです。
涙が溢れました。
ぐしゃぐしゃに泣きました。
私は一体何をしているのか。
ボロボロになってまで私を育ててくれているあの人に、私は何をうっとうしく思っているのかと、凄まじい後悔が私を襲いました。

私は友達の目も気にせず、母に駆け寄りました。
でも、何を言っていいかわかりませんでした。
その時、ふと口をついた言葉が

「いってきます。」

でした。
言えた言葉はたったそれだけでした。
でも、母は一瞬驚き、そして泣きました。
そして、何度も何度も

「いってらっしゃい。」

と言ってくれました。
私が友達の元へ戻ったあとも、母は私を見ながら手を振って

「いってらっしゃい。」

と言ってくれていました。

今では、彼女こそが本当の私の母親です。
たとえ戸籍上はどうあれ、そう思っています。
恩は返しきれないくらいあります。
母は

「それが親の勤めだよ。」

と言いますが、でも、じゃあ今度は子として、親の面倒を見ていきたいです。
この人が母親で、最高に良かったと思います。

オムライス

  • Posted by: 管理人
  • 2011年9月28日 11:50
  • 家族

小学生の頃、一人っ子で、鍵っ子だったぼくの土曜日の昼食は冷えたオムライスだった。
毎週といっていいほど、ケチャップをつけてラップをかけたオムライスだった。
朝から夜まで働き通しだった母が忙しい時間の合間を縫ってつくってくれていたものだ。

そんな事はすっかり忘れていた一昨年、私は離婚して一人、今は母だけになった実家に帰った。

自暴自棄になり仕事も辞めていたから、実家で数日を過ごした。
毎晩黙って酒をあおる私を母は何も言わず、早く寝ろと促すだけで先に眠っていた。

ある日、昼過ぎまで寝ていた私が台所で酔い覚めの水を飲むとテーブルに何かあることに気付いた。
作り置きの冷えたオムライス。
メモがあって

「用事があって出かけるから、これ食べなさい。」

と書いてあった。
私はラップを剥がして、静かにオムライスを食べた。
懐かしさと、切なさと・・・色々な感情がまじって湧き出し、オムライスはしょっぱくなった。
私はその日、帰京する支度をして、また一からやりなおすと母に誓った。
今はまだ一人だけど、淡々とそれでも楽しく生きている。

口に出して言えないけれど・・・
お母さん、私は永遠にあなたの息子です。

  • Posted by: 管理人
  • 2011年9月22日 10:27
  • 家族

学生時代、書類の手続きで1年半ぶりに実家に帰った時のこと。
本当は泊まる予定だったんだが、次の日に遊ぶ予定が入ってしまったので結局日帰りにしてしまった。

母にサインやら捺印やらをしてもらい、帰ろうとして玄関で靴紐を結んでいると、父が会社から帰ってきた。
口数が少なく、何かにつけて小言や私や母の愚痴を言う父親のことが苦手で、一緒に居ると息苦しさを感じていたの私は、父が帰宅する前に帰ってしまいたいというのも、日帰り、ひいては通えない距離の学校を選んだの理由の一つだった。
父が、

「お前、泊まるんじゃなかったのか?」

と訊いたので、

「ちょっと忙しいから。」

とぶっきらぼうに答えると、手に持っていたドーナツの箱を私に差し出し、

「これやるから、電車の中で食え。道中長いだろうから。」

と言った。
駅に着くと、電車は行ったばかりのようで人気がなく、30分は待たされるようだった。
小腹が減ったので、父からもらったドーナツの箱を開けた。
3個ずつ3種類入っていた。
家族3人でお茶するつもりだったんだなぁ。
でも、私が9個貰っても食べきれないよ。
箱の中を覗き込みながら苦笑した。

その直後。
あぁ、あの人は凄く不器用なだけなんだろうなー。
ふとそう思うと、涙がぼろぼろ出てきた。
様々な感情や思い出が泡のように浮かんでは消えるけど、どれもこれも切なかったり苦かったりばっかりで。
手持ちのポケットティッシュが無くなっても、ハンカチが洗濯して干す前みたいに濡れても涙は止まらなくて、結局、一本あとの電車が来るまで駅のベンチでずっと泣き続けていた。

お弁当

  • Posted by: 管理人
  • 2011年9月21日 16:42
  • 家族

海の学習という名前で学年全体で泊りがけでの研修のあった5年生。
雨女の私が出かけると必ず雨。
今までの遠足も雨が多かったから、そんなにがっかりすることもだんだんなくなってた。

ただ海の学習だから海でボートに乗ったりできるのが楽しみだったのに。
本当なら外のお日様の下で食べられるはずだったお弁当。
かわいそうに。
せっかくお母さんが作ってくれてみんなで外で気持ちよく楽しくワイワイ食べたかったのになー。
雨だから研修所の宿泊大部屋でみんな自分のお弁当をとりだした。
あれ?包みの中にお母さん、何か入れてる??

「○○ちゃん、楽しみにしていた海の学習の日がきたね。たくさんのお友達と一緒にお弁当を食べてね。」

メモがでてきた。

3人年子の兄弟の真ん中の私。
いつも子育てに仕事に忙しかったお母さんは、それでも家事の手抜きはなかった。
それでも中子の私はあまり母にはかまってもらえてなかった。
それもあまり気にならなかったし。
お母さん大好きだから。

そこにこのメモ。
読みながら涙がブワーっとでてきた。

どんなおかずがはいってたか記憶にない。
自分の涙でしょっぱかったことは覚えてるのに。
そのメモ、お母さんに見られないように20年たった今でも隠してもってる。

塩ラーメン

  • Posted by: 管理人
  • 2011年9月13日 13:30
  • 家族

うちの家族は母と私(長男)、弟が二人の母子家庭。

父と母は、私が5才の時に離婚をし親権は母親へ。

「扶養金なんかいらない。」

と言い残し、私たち兄弟を引き取ったらしい。
女・酒・ギャンブル、全てに手を付けていた父の下に、一人でも子供を残して行きたくなかったのだろう。
母はそれからというもの、幼い私たちからひと時も目を離したくなかったのだろうか、私たちの入園した保育園で働き始めた。

お世辞にも給料は良いとは言えない。
おそらく12、3万だっただろう。
自分には何一つ買わず、全てを子供の為に注ぎ込んだ母。
いつもボロボロの服を着ていたのを覚えている。
しかし、それでも生活は厳しく、唯一ボーナスを貰ったときだけ食べに行ったのが、ある定食屋の塩ラーメンだった。
野菜がたくさんのった塩ラーメンを食べているあの時間だけが、私たち家族の至福の時だった。
そう、夏と冬、二度だけの。

今では兄弟も成人し、家族四人なに不自由なく暮らしている。
住むところはまちまちだが、そんなことを感じさせないほど、家族の絆は深い。
兄弟三人。
しかも年子で男ばかり。
これを、女手一つでここまで育て上げた母を、私は世界中の誰よりも尊敬している。

そして、その定食屋はというと。
大変残念な事に、数年前に店主が癌で亡くなり、今はその形だけが残り、シャッターを下ろしている状態である。
しかし、今でもあの店の雰囲気と、四人で過ごしたあの時間を生涯忘れる事はないだろう。

娘からの手紙

  • Posted by: 管理人
  • 2011年9月 5日 11:08
  • 家族

俺の毎朝の日課は、小学校1年の娘と一緒にモノレールに乗る事。
駅までの道は手を繋いで行く。
他人から見ると、いい家庭を絵に描いたような風景だが、実際は違う。

妻とは会話もほとんど無いし、たまに会話をするとなぜか口論になる。
そしてお決まりの展開。

「だったら、別れるか?」
「いいよ!でも、子供はどうすんの?」
「・・・。」

いつものセリフで言い争いが終わる。

ある日の出社前、読みかけの本を入れようとしてカバンを開けると中に何か入ってるのに気づいた。

「封筒・・・?」

取り出してみると、つたない字で俺の名前が書いてある。

『○○ ○○へ』(○○ ○○は何故か俺の氏名)

娘から俺宛の手紙だった。
いつの間に入れたのだろう?
早速読んでみた。

娘からの手紙の続きを読む

最高のママ

  • Posted by: 管理人
  • 2011年8月29日 10:45
  • 家族

493 :おさかなくわえた名無しさん :04/12/12 18:30:29
もう10年も前の話。
妻が他界して1年がたった頃、当時8歳の娘と3歳の息子がいた。
妻がいなくなったことをまだ理解できないでいる息子に対して、私はどう接してやればいいのか、父親としての不甲斐なさに悩まされていた。

実際私も、妻の面影を追う毎日であった。
寂しさが家中を包み込んでいるようだった。
そんな時、私は仕事の都合で家を空けることになり、実家の母にしばらくきてもらうことになった。

出張中、何度も自宅へ電話をかけ、子供たちの声を聞いた。
2人を安心させるつもりだったが、心安らぐのは私のほうだった気がする。

そんな矢先、息子の通っている幼稚園の運動会があった。
『ママとおどろう』だったか、そんなタイトルのプログラムがあり、園児と母親が手をつなぎ、輪になってお遊戯をするような内容だった。
こんなときにそんなプログラムを組むなんて・・・。

「まぁ、行くよ♪」

娘だった。
息子も笑顔で娘の手をとり、二人は楽しそうに走っていった。
一瞬、私は訳が分からずに呆然としていた。
隣に座っていた母がこう言った。

あなたがこの間、九州へ行っていた時に、正樹はいつものように泣いて、お姉ちゃんを困らせていたのね。
そうしたら、お姉ちゃんは正樹に、

「ママはもういなくなっちゃったけど、お姉ちゃんがいるでしょ?本当はパパだってとってもさみしいの。だけどパパは泣いたりしないでしょ?それはね、パパが男の子だからなんだよ。まぁも男の子だよね。だから、だいじょうぶだよね?お姉ちゃんが、パパとまぁのママになるから。」

そう言っていたのよ。

何ということだ。
娘が私の変わりにこの家を守ろうとしている。
場所もわきまえず、流れてくる涙を止めることが出来なかった。

10年たった今、無性にあの頃のことを思い出し、また涙が出てくる。
来年から上京する娘、おとうさんは君に何かしてあげられたかい?

君に今、どうしても伝えたいことがある。
支えてくれてありがとう。
君は最高のママだったよ。
私にとっても、正樹にとっても。
ありがとう。

地図

  • Posted by: 管理人
  • 2011年8月28日 15:01
  • 家族

オヤジが今年の春に入院し、夏に死んだ。
子供から見ても波乱万丈の人生で、職を転々とし、最後の2年間は大好きな車を仕事にしたい、ということでタクシーの運ちゃんやってた。
おふくろによれば

「あんなに生き生きと働いているのは今まで見たことがなかった。」

ということで、きっとタクシー運転手を天職だと思っていたのだろう。
入院して1ヶ月ほどたったゴールデンウイーク、オレは彼女を連れて見舞いにいった。

その彼女を親に会わせるのは初めてだったが、まだオヤジが多少は元気だった頃だったし、それに今度いつ会わせられるかわからないので、半ば押しかけるように連れていった。
そして、見舞いのあと彼女に地元の観光名所を案内しようという話になったとき、オレがあまり
そういう場所を知らないので本でも買って見ながら行くわ、というと、オヤジはやおら起きあがって、心配する母親をよそに、チラシの裏に鉛筆で地図を描きはじめた。

さすがタクシー運転手だ。
まるで自分の家の間取りを描くかのように、観光名所の場所を鮮明に描いた。
交差点の名前、目印となる建物、一番効率よく見て回る順番、オヤジなりにつけた「面白度」・・・すげえ。
どんなガイドブックよりもわかりやすい。
生まれて初めて、親父を心底尊敬した。
その地図を頼りに彼女を案内しながら、この土地、そしてこのオヤジのもとに生まれてよかった、
と心底思った。
そして、

「早くよくなって、またタクシーに乗るんだ。」

という、オヤジの強い思いを感じた。

オレらが帰った直後からオヤジの容態は悪化し、2ヶ月苦しんだ末8月に死んだ。
辛い人生だったろうな、と思う。
でもなオヤジ、オレはあんたの子供でほんとによかったと思ってるよ。
そして最後に、あんな些細なことだけど、あんたを尊敬できてよかった。

オヤジの描いた地図。今でもカバンのポケットに入ってるけど、見ると泣きそうなので出せない。
来年には、あんときの彼女の苗字をあんたと同じにして、墓参り行くからな。
そんで、またあの地図を見ながら、観光名所巡りするよ。

長くなってスマンかった。

病気の母ちゃん

  • Posted by: 管理人
  • 2011年8月26日 00:17
  • 家族

母ちゃんは俺が4つの時病気で死んだんだ。

ぼんやりと覚えてる事がひとつ。

公園でいつも遊んでた、夕方になるとみんなの母ちゃんが迎えにくるんだ。
うちの母ちゃんは入院生活が長くて、どうせ帰っても親父は仕事だし誰もいない。
暗くなってもよく公園にいたな、兄貴が部活終わって公園の前通って一緒に帰るのが日課だった。

その日も暗くなっても砂場で遊んでた。
そしたら俺を呼ぶ声が聞こえて、母ちゃんが息切れしながら歩いてきた。

「ママー!ママー!」

って馬鹿みたいに叫んで走ったよ。
暗い中、

「ブランコに一緒に乗ろう。」

って母ちゃんが俺を膝に乗せてしばらくそうしてた。

その後、何日かして病院で死んじまった。
後から親父に聞いたら、自分でも長くない事わかってたらしい。

あの時、母ちゃんどんな気持ち抱えてたんだ?

「どうしていつも病院にいるの?」

ってしつこく聞いてごめん。
辛かっただろう。
来年、俺彼女と結婚するよ。
母ちゃんの分も向こうのお袋さん大事にすっから。

誕生日プレゼント

  • Posted by: 管理人
  • 2011年8月25日 17:19
  • 家族

俺がまだ小学生だった頃、どうしても欲しかったオモチャを万引きしたら見つかって、それはもう親にビンタされるは怒鳴られるはでメチャメチャに怒られた。
それから暫らくして俺の誕生日が来たんだけど、その時に両親が俺にくれたプレゼントがその時万引きしたオモチャだった。

「お前これ欲しかったんだろ?」

と母親が言ってくれたとたん俺は泣いた・・・。

家貧乏だったのに多分無理して買ってくれたんだろうな・・・。
あれからもう15年くらいたったけど、今でも忘れられない思い出になっています。

亡くなった母のビデオ

  • Posted by: 管理人
  • 2011年8月25日 17:15
  • 家族

俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。

それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにグレた。
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、

「親父のエロビデオとかかな?」

なんて思って見てみた。
そしたら、病室のベットの上にお母さんがうつってた。

『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・。』

10分くらいのビデオテープだった。

俺、泣いた、本気で泣いた。
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカにされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、
親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。

そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら

『情けないわねぇ。』

なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。
父親も辛かったんだろうな、
親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、就職決まった時、親父が

『これでお母さんに怒られなくて済むよ。』

なんていってた。

俺このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

弟の笑顔

  • Posted by: 管理人
  • 2011年8月 6日 23:35
  • 家族

372: 12/09 01:56
もう何年も前になる。
中学生の弟が鏡の前で一人で笑ってるのを見掛け、吹き出しかけた。
服や髪に気を遣いだし、彼女が出来たと喜んでた時期だった。
だから、今度は笑顔を作る練習でも始めたのか?と考えた。

9つ離れてるから弟が生まれる前から知っていて、あの赤ん坊が大きくなったもんだと、兄貴面して見なかったことにしてやった。
その後もそういう姿を幾度か見掛けた。

どれだけ経ってか、弟と喋るうちにやっと理由が分かった。
前に法事で親戚が集まったときに、みんな口を揃えて

「○○(弟)は笑ったらお父さんにそっくり!」

って言ってたんだよ。
俺から見ても、確かによく似てる。
父が死んだのは弟がまだ幼いときで、弟は父の顔を憶えていない。
父は写真を撮られるのが苦手だったから、笑顔の写真が一枚もない。

弟は普段、誰かが父の話をしても、大して興味なさげにしてるだけだった。
だから、記憶に残ってなきゃこんなもんかと寂しく感じたこともあった。

でも、そんなわけないんだよな。
弟は、ああやって父に会ってたのかと思うと、なぜか弟に申し訳なく切なくなる。
あの時、からかわなくて良かった。

バカ息子

  • Posted by: 管理人
  • 2011年8月 1日 09:05
  • 家族

前の会社で働いていた頃、母親からこずかい毎月一万ほどせびられた。
一人暮らしの俺にとってはつらかった。
払わないと

「親不孝者」
「バカ息子」

など、罵倒の嵐。

(この糞ババア、いつかマジで殺してやる。)

と呪った事もあった。
しかし、中学時代にグレて散々迷惑をかけた手前、半ばあきらめていた事もあった。

やがて俺が社会に働きに出て数年後、おふくろは死んだ。
その時、通夜の席で親戚に一冊の預金通帳を渡された。
額は100万程度。
聞けば俺の浪費癖を心配したおふくろが、俺からせびっていたお金を毎月積み立ててくれたものらしい。

それを聞いた時、俺は号泣して泣いた。
金を請求されるという表向きの事にとらわれ、なぜおふくろが金を請求するのかという事を考えもしなかった自分自身が誰よりも許せなかった。
母親が死んだ当時、俺は会社をリストラされ貯金も無く失意のどん底だったが、この100万円のおかげでホームレスにはならなくて済んだ。

今でも駄目なリーマンには変わりはないが、つらい時はこの事を思い出して頑張れてる。
今さらだけど・・・。

お母さん・・・。
ありがとう・・・。

クリスマスプレゼント

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月24日 23:39
  • 家族

693 :名無しの心子知らず:2008/12/26(金) 13:36:27 ID:ZLuBX3wZ
6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いてお いたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。

「サンタさんへ。おとうさんのガンがなおるくすりをください!おねがいします。」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよw

昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで

「ギャーっ!」

って嬉しい叫びを上げてた。
早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って

「ねえ!サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの!早く飲んでみて!」

っていって、夫に薬を飲ませた。
夫が

「お!体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ。」

と言うと娘が、

「ああ!良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~。」

っていうと、夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして

「ぐっ、ぐうっ。」

って泣き始めた。

私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って、無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には

「薬の効き目で涙が出てるんだ。」

と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が

「来年はお前がサンタさんだな。しっかり頼むぞ。」

と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。
お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

パパは、1時間にいくらお金をかせぐの?

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月23日 20:38
  • 家族

ヘタレプログラマーは、今日も仕事で疲れきって、遅くなって家に帰ってきた。
すると彼の5歳になる娘がドアのところで待っていたのである。
彼は驚いて言った。

「まだ起きていたのか。もう遅いから早く寝なさい。」
「パパ。寝る前に聞きたいことがあるんだけど。」
「なんだ?」
「パパは、1時間にいくらお金をかせぐの?」
「お前には関係ないことだ。」

ヘタレプログラマーである父親はイライラして言った。

「なんだって、そんなこと聞くんだ?」
「どうしても知りたいだけなの。1時間にいくらなの?」

女の子は嘆願した。

「あまり給料は良くないさ・・・。20ドルくらいだな。ただし残業代はタダだ。」
「わあ。」

女の子は言った。

「ねえ。パパ。私に10ドル貸してくれない?」
「なんだって!」

疲れていた父親は激昂した。

「お前が何不自由なく暮らせるためにオレは働いているんだ。それが金が欲しいだなんて。だめだ!早く部屋に行って寝なさい!」

女の子は、黙って自分の部屋に行った。
しばらくして父親は後悔し始めた。

少し厳しく叱りすぎたかもしれない・・・。
たぶん、娘はどうしても買わなくちゃならないものがあったのだろう。
それに、今まで娘はそんなに何かをねだるってことはしない方だった・・・。
男は、娘の部屋に行くと、そっとドアを開けた。

「もう、寝ちゃったかい?」

彼は小さな声で言った。

「ううん。パパ。」

女の子の声がした。
少し泣いているようだ。

「今日は長いこと働いていたし、ちょっとイライラしてたんだ・・・。ほら。お前の10ドルだよ。」

女の子はベットから起きあがって、顔を輝かせた。

「ありがとう。パパ!」

そして、小さな手を枕の下に入れると、数枚の硬貨を取り出した。
父親はちょっとびっくりして言った。

「おいおい。もういくらか持ってるじゃないか。」
「だって足りなかったんだもん。でももう足りたよ。」

女の子は答えた。
そして10ドル札と硬貨を父親に差しのべて・・・

「パパ。私、20ドル持ってるの。これでパパの1時間を買えるよね?」

母の味

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月22日 17:13
  • 家族

154 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/06/16(火) 04:02:51.18 ID:+8cgu5ea0
俺は小学生の頃に母の作った炊き込みご飯が大好物だった。
特にそれを口に出して言った事は無かったけど母は判っていて、誕生日や何かの記念日には我が家の夕食は必ず炊き込みご飯だった。

高校生位になるとさすがに

「又かよっ!」

と思う様になっていたのだが、家を離れるようになっても、たまに実家に帰ると待っていたのは母の

「炊き込みご飯作ったよ。沢山食べなさい。」

の言葉だった。

会社に電話が来て慌てて向かった病室には既に近くの親戚が集まっていた。
モルヒネを打たれ意識の無い母の手を握り締めると母の口が動いた。
何かを俺に言いたそうだった。
母の口元に耳を近づけると

「炊きこ・・・たよ。たくさ・・・・さい。」

と消え入りそうな声で言っていた。
それが最後の言葉だった。

「ママの作ったスパゲッティー大好き!」

口の周りを赤くしてスパゲッティーを食べる娘と、それを幸せそうな目で見つめる妻を見る度に
母の炊き込みご飯が食べたくなる。

母子家庭

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月15日 12:31
  • 家族

俺んち母子家庭で貧乏だったからファミコン買えなかったのよ。
すっげーうらやましかったな、持ってるやつが。

俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて

『ファミコン持ってないやつが怪しい。』

なんて真っ先に疑われたっけ。

「貧乏の家になんか生まれてこなきゃ良かった。」

って悪態ついた時の母の悲しそうな目。
今でも忘れないなぁ。

どーしても欲しくって中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけどニチイのゲーム売り場の前まで来て買うの止めた。

その代わりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。
いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリームを買ってやった。
いっつも手が荒れてたから。

去年オレは結婚したんだけど、結婚式前日に母に大事そうに錆びたハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね。
初めて母に言ったよ。

『生んでくれてありがとう。』

ってね。

ママ役お姉ちゃん

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月13日 08:42
  • 家族

493:おさかなくわえた名無しさん 12/12 18:30 SAtrbW1A
もう10年も前の話。

妻が他界して1年がたった頃、当時8歳の娘と3歳の息子がいた。
妻がいなくなったことをまだ理解できないでいる息子に対して、私はどう接してやればいいのか、父親としての不甲斐なさに悩まされていた。
実際私も、妻の面影を追う毎日であった。
寂しさが家中を包み込んでいるようだった。

そんな時、私は仕事の都合で家を空けることになり、実家の母にしばらくきてもらうことになった。
出張中、何度も自宅へ電話をかけ、子供たちの声を聞いた。
2人を安心させるつもりだったが、心安らぐのは私のほうだった気がする。

そんな矢先、息子の通っている幼稚園の運動会があった。
『ママとおどろう』だったか、そんなタイトルのプログラムがあり、園児と母親が手をつなぎ、輪になってお遊戯をするような内容だった。
こんなときにそんなプログラムを組むなんて・・・。

「まぁ、行くよ♪」

娘だった。
息子も笑顔で娘の手をとり、二人は楽しそうに走っていった。
一瞬、私は訳が分からずに呆然としていた。
隣に座っていた母がこう言った。

あなたがこの間、九州へ行っていた時に、正樹はいつものように泣いて、お姉ちゃんを困らせていたのね。
そうしたら、お姉ちゃんは正樹に、

「ママはもういなくなっちゃったけど、お姉ちゃんがいるでしょ?本当はパパだってとってもさみしいの。だけどパパは泣いたりしないでしょ?それはね、パパが男の子だからなんだよ。まぁも男の子だよね。だから、だいじょうぶだよね?お姉ちゃんが、パパとまぁのママになるから。」

そう言っていたのよ。

何ということだ。
娘が私の変わりにこの家を守ろうとしている。
場所もわきまえず、流れてくる涙を止めることが出来なかった。

10年たった今、無性にあの頃のことを思い出し、また涙が出てくる。
来年から上京する娘、おとうさんは君に何かしてあげられたかい?

君に今、どうしても伝えたいことがある。
支えてくれてありがとう。
君は最高のママだったよ。
私にとっても、正樹にとっても。
ありがとう。

一人っ子の息子

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月10日 08:00
  • 家族

969: 05/08 11:28
私の婦人科系の出費がかさんでいて、我が家はあまり裕福じゃない。
だから息子には申し訳ないんだけれど、おもちゃなんかはお誕生日とクリスマスの年二回しか買ってあげてないんだ。

息子が6歳の誕生日に

「欲しいものは?何でも買ってあげるよ。」

って夫婦できいたとき、息子が言ったのは

「妹か弟が欲しい。」

だった。

「ボクはこの先一生おもちゃ買って貰えんでええけん、弟妹が欲しい。」

ごめんね。
あなたに弟妹をあげられないお母さんでごめんね。
子宮が無くてごめんなさい。
ごめんなさい、許してね。
頭が真っ白になってしまって、親の癖に取り乱して息子に縋り付いて泣いて謝ってしまったんだよね、私。
息子はビックリして

「お母さんを泣かせてごめんなさい。」

って泣きだした。
親としてなってないよね、私。
息子を傷つけたよね。
本当にバカだった。

長いので途中で切ります。

一人っ子の息子の続きを読む

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月 6日 08:59
  • 家族

52:名無し 2007/08/14 18:39:49
今日は兄の誕生日だ。
私より10才年上の兄は、私が10才の時に両親を事故で失って以来ずっと私を育ててくれた。

兄は私を育てるために大学をやめ、働きながら私を育ててくれた。
口癖は

「お前は俺の半分しか父さんや母さんとの思い出がないんだから。」

だった。
授業参観にも学校祭にも体育祭にも三者面談にも、いつも兄が来てくれた。
周囲のおばさま方の中で、明らかに兄は浮いていたが、それでもいつも兄は会社で休みをもらって学校に来てくれた。

初めて作った料理とも言えないようなものを、美味しいと言って全部食べてくれた。
仕事で疲れているだろうに、家に帰ってきてから私の学校での話を聞いてくれたり、宿題を見てくれたり、学校への連絡ノートも毎日欠かさず書いてくれた。
土日も私と遊んでくれて、色々なところへ連れて行ってくれた。

そんな兄には自分の時間なんてなかったように思う。
友達のを見て、

「お団子ヘアにして欲しい、友達のお母さんならやってくれた。」

とわがままを言った時、慣れない手つきで一生懸命作ってくれたのに、

「こんなんじゃない、お母さんに会いたい!」

と兄をなじってしまった。
兄はそれを聞いてごめんと泣き出してしまった。
あの姿を思い出すたびに、兄も両親を事故で失った子供だったんだと今でも泣きそうになる。

兄の続きを読む

デジカメ

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月 6日 08:53
  • 家族

なんか機械音痴の母がデジカメを買った。

どうやら嬉しいらしく、はしゃぎながらいろいろと写してた。

何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく

「どうすればいいの?」

って聞いてきたが

「忙しいから説明書読め!」

とつい怒鳴ってしまった。
さらに

「つまらないものばかり写してるからだろ!」

とも言ってしまった。
そしたら

「・・・ごめんね。」

と一言。

そんな母が先日亡くなった。
遺品整理してたらデジカメが出てきて、何撮ってたのかなあと中身を見たら、俺の寝顔が写ってた・・・。

涙が止まらなかった。

野球、ごめんね

  • Posted by: 管理人
  • 2011年7月 1日 12:53
  • 家族

198 :名無し物書き@推敲中? :04/05/05 22:20

幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。
それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。
給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。

チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外のベンチで弁当を食べて帰った。

電車の中で無言の母に

「楽しかったよ。」

と言ったら、母は

「母ちゃん、バカでごめんね。」

と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。
結婚もして、母に孫を見せてやることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。
死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように

「野球、ごめんね。」

と言った。
俺は

「楽しかったよ。」

と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

「野球、ごめんね。」のフラッシュ動画

誕生日パーティー

  • Posted by: 管理人
  • 2011年6月29日 02:15
  • 家族

私が23歳の頃、就職1年目の冬、私の誕生日の日のこと。
職場の人たちが

「誕生パーティーをしてあげる!」

というので、家に、

「今日は遅くなるよ。ゴハンいらないから。」

と電話を入れたら、父が

「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」

と言う。

「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」

と私が言うと、いつもは温厚な父が、

「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」

とねばる。

「???」

と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。
家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、電話に出た父。
食卓にはスーパーで売ってるような鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。

「なんでわざわざ帰らせたの!私だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」

と言ってしまった。
父は何か言ったと思うが、覚えていない。
母が、

「ごめんね。明日でもよかったね。」

と涙ぐんだ。
私は言い過ぎたな、と思った。
でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。

その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。
仕事帰りに病院に行くと、父がいた。
廊下の隅で、

「実はお母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめんね。」

とつぶやいた。
呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。
あの誕生日の日のページに

「○子に迷惑をかけてしまった。」

とあった。
ワーッと声を出して泣いた。
何時間も

「ごめんね。」

といいながら泣いた。
夜が明ける頃には涙が出なくなった。
すごい耳鳴りがした。

4、5日して母は死んだ。
仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。
父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。
母にとっては最後だったのに・・・。

父も数年後に死んだ。
こんな情けない自分でも、がんばって生きている。

お弁当

  • Posted by: 管理人
  • 2011年6月27日 07:37
  • 家族

私の中学校の昼飯は給食ではなく弁当持参だった。

私の母の作る料理はお世辞にも美味いとは言えないもので、なおかつ見た目も悪かった。
そんな母の弁当を、とても恥ずかしく思っていて、学校にも持っていけず、毎朝、家の玄関に母の作った弁当を忘れたフリをして置きっぱなしにしていた。

でも母は何も言わなかった。

ある朝、4時頃に、私は急にトイレへ行きたくなり目が覚めた。
両親ともまだ寝ているだろうと、そっとトイレまで向かうと、台所で物音がしている。

母だった。

一生懸命レシピを片手に弁当を作っていた。
私は兄弟が多く(5人)、母は全員分の弁当を朝早くから作っていた。

そんな事、ちょっと考えれば分かるのに、母の顔をもっとよく見れば分かってあげられたのに・・・。

それからは絶対に母の弁当を置いていくことはしなかったが、私は長い間母の心を踏みにじっていた事を考えると今でも涙が出ます。

千円札

  • Posted by: 管理人
  • 2011年6月20日 09:12
  • 家族

昨日、親父の七回忌だった。
うちは本当に貧乏でさ、商売やってたんだけど、つぶれてシャッターがおりてる店がほとんどの寂れた商店街の隅っこに店があって、それでも

「店で待っていてもお客は来ない。」

って、両親は毎日毎日朝から晩まで注文取りに走り回ってた。

俺は五歳下の妹と二人兄弟で、小学生の頃からいつも二人で夕食を作って遅くまで両親の帰りを待ってた。
小学生の料理なんてうまいはずはないけれど、親父は

「お前たちのカレーはすごくいい味だ。」

ってほめてくれた。

明るい家族だったから、貧乏でも楽しかった。
休みの日には、大きな鍋とインスタントラーメンを持って海に行って、たき火をしてラーメンを煮て食べた。
おいしかったなぁ。

小学校中学校と放課後友達と遊んだ記憶はほとんどない。
妹の面倒見なくちゃいけなかったし、家の手伝いもあったし。
高校受験の時にね、

「こんな暮らしをしててもお前は貧乏から抜け出せない。家のことはいいからちゃんと大学出て、自分でやりたいことを見つけろ。」

って親父が言ってくれて、鹿児島の全寮制の高校に行かせてくれたんだ。
バイトはできなかったけど、運良く奨学金がもらえて仕送りなしで高校に通えた。

たまに帰省すると、その度にくしゃくしゃの千円札を母親に隠れて何枚か渡してくれて

「少しで悪いな。」

って。
そんな金使えないよな。
今でもしまってある。
35枚。

馬鹿なりに一生懸命勉強して東京の国立大に受かった。
ホントは受かっただけで満足だった。
でも、親父すごく喜んでさ

「商売がんばってるから大学行ったら仕送りしてやれるぞ。」

って。

千円札の続きを読む

兄弟の夢

  • Posted by: 管理人
  • 2011年6月14日 09:18
  • 家族

19: 12/22 23:55
三人兄弟の末っ子だったオレ。
オレが消防だった時に兄貴が高3だった。
車好きの兄貴は自動車会社に就職したくて大学に行きたかったみたいけど、頭は決してよく無かったので私立の大学にしかいける大学がなった。
兄貴は親父に大学に行きたいと言ったが、親父は

『家には金が無い。残りの兄弟もいるし、我慢してくれ。すまん。』

と言った。
影でその話を聞いていた俺は、それまで自分の家が貧乏だと思ってはなかったので驚いた。
話を承知した兄貴は、肩を揺らして泣いていた。
親父も自分が不甲斐無いのか泣いていた。

その後、兄貴は高卒で就職した。
数年後、同様に二番目の兄貴も高卒で就職した。
そして、俺が高3になった時、俺も大学に行きたいと思っていた。
自分でもいうのはなんだが、学校での成績はかなりいいほうだった。

しかし、親兄弟には迷惑はかけれないと進学は諦めていた。
迷惑をかけないように、

『オレも高校卒業したら就職するから。』

って家族にいつも言っていた。
そんな時、2人の兄貴が

『お前は安心して好きな道を歩め。大学に行きたいなら、はっきり言え。オレがどうにかしてやる。お前は頭もいいし、オレの出来なかった夢を叶えてくれ。』

と言ってくれた。
嬉しかった。
大声で泣いた。

数年後、オレは無事に大学を卒業、兄貴の夢でありオレの夢であった自動車会社に就職することができた。
兄貴は喜んでくれてはいたが、さぞ悔しかっただろうと思う。
申し訳ないことをしたと思っている。
面と向かって言うのは照れるので、ここで言わせてもらいたい。

兄貴、ありがとう。
いつか、最高の車を造るからな。

苺のショートケーキ

  • Posted by: 管理人
  • 2011年6月11日 08:35
  • 家族

俺には歳が六つ離れた妹がいた。
俺は小学校の頃からずっと体育5とかで元気だけが取り柄みたいな子供だったんだが、妹はちょっと体が弱くて少し体調を崩すと何日も熱で寝込んじゃうくらいだった。
そんな事もあってかお互いケンカもほとんどなく本当に仲良く楽しく暮らしていた。
結構妹に甘くて、いつも何か頼み事されたら断り切れないでそれを聞いてしまう。

例えば、苺のショートケーキがおやつに出たら、出た瞬間にはもう妹が顔で合図してくる。
俺も馴れたものでそれだけで

「はいはい・・・。」

って感じで聞いてしまう。
そしたら妹は、たった一つの苺で大はしゃぎする。
あれを見たら苺の一つや二つなんかまじで安いもんだって思った。
本当にそんな何でもない日々を過ごしていた。
でもさ、現実なんて本当にもろいもんだった・・・。

俺が高校2年生の時だった。
その日の朝もいつもと変わらない朝のはずだった。
いつもの目覚ましで起きて、いつもの制服に着替えて、いつもの道を通って学校に行く。
そんな何でもない日だったはずなのに、朝起きたら両親がやたらと騒いでいた。
朝からうるせぇなぁとか思いながら両親が騒いでる居間に行くとそこで顔面蒼白の妹が横になって呻いていた。
今までの熱とは明らかに違うような感じで、もう誰が見てもわかるくらいに

「苦しい・・・辛い・・・。」

って顔だった。
さすがに俺もびびって、すぐ妹に話しかけた。
そしたら、本当は苦しいはずなのに

「いつもの熱だから大丈夫だよ。」

って笑って言った。
そんなわけ絶対になかったのに・・・。

苺のショートケーキの続きを読む

親父の弁当

  • Posted by: 管理人
  • 2011年6月 8日 08:57
  • 家族

小1の秋に母親が男作って家を出ていき、俺は親父の飯で育てられた。

当時は親父の下手くそな料理が嫌でたまらず、また母親が突然いなくなった寂しさもあいまって、俺は飯のたびに癇癪おこして大泣きしたりわめいたり、ひどい時には焦げた卵焼きを親父に向けて投げつけたりなんてこともあった。

翌年、小2の春にあった遠足の弁当もやっぱり親父の手作り。
俺は嫌でたまらず、一口も食べずに友達にちょっとずつわけてもらったおかずと持っていったお菓子のみで腹を満たした。
弁当の中身は道に捨ててしまった。
家に帰って空の弁当箱を親父に渡すと、親父は俺が全部食べたんだと思い、涙目になりながら俺の頭をぐりぐりと撫で、

「全部食ったか、えらいな!ありがとうなあ!」

と本当に嬉しそうな声と顔で言った。
俺は本当のことなんてもちろん言えなかった。
でもその後の家庭訪問の時に、担任の先生が俺が遠足で弁当を捨てていたことを親父に言ったわけ。

親父の弁当の続きを読む

母のおにぎり

  • Posted by: 管理人
  • 2011年6月 7日 08:40
  • 家族

おととしの、秋の話しです。
私が小学校5年の時に家をでて、居場所のわからなかった母に、祖母の葬式の時、23年振りで、顔をあわせました。
その時、母の家に遊びに行く約束をしました。

その日は、私が料理を作りました。
ハンバーグと肉じゃがと、簡単なサラダです。
2人で食事をして、お酒を飲んで、はじめはあたりさわりのない話しをしてましたが、だんだん、

「何故いなくなったのか?」

という話しになりました。
母はたんたんと話します。
私も、母がつらくならないように、途中、冗談を入れながら、聞きました。
帰る時、

「今日はおかあちゃん、なんもできひんかってごめんな。」

と、言ったので、私は

「ほな、残ったごはんで、おにぎり作って。」

と言いました。
母は、

「そんなんで、ええんか。」

と笑いながら作ってくれました。

帰り、駅からタクシーに乗りました。
今日のことを思い出しているうちに、不覚にも涙がててきました。
運転手さんがびっくりして、

「気分悪いんか?」

と聞かはりました。
私は、

「いえ、なんか、嬉しくって、泣けてきちゃったんです。」

と、泣き笑いしながら、運転手さんに、今日の事を短く話しました。
すると、運転手さんも一緒に泣き出してしまいました。

「よかったな、よかったな。」

と鼻水まですすってました。

家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれて、元気のない日に、1コづつ、大事に大事に、食べました。

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