- 2011年10月24日 18:38
- 全般
翌朝、目は少し腫れていたが目立つほどではなかった。
正直、気は重かったが学校には行かなくては。
片瀬にああ言った事だし。
俺は支度を済まし、家を出た。
出来れば今日は誰とも関わらず、穏やかに静かに過ごしたかった。
傷はまだ塞がるどころか、いたずらに刺激を受ければ再び血を流してしまいそうだった。
片瀬にあったらどうしようか。知り合ってから初めて、彼女に会いたくないと思った。
しかし、運命は中途半端に俺たちを引き寄せる。
「あ・・・。」
通学路、今日は片瀬は一人で登校していた。
「あ、片瀬・・・お、おはよう」
「お、おはよう・・・。」
彼女も少し目が赤かった。
夕べ、あれだけ泣けば無理もないか。
流した涙の量は俺も負けていないとは思うけれど。
「目が赤いね。寝不足?」
俺は解かりきったことを聞く。
「うん・・・。夕べ、ちょっと泣いちゃって。」
「片瀬を泣かすなんて酷い人がいるもんだね。」
少しおどけて言う。
「ふふっ・・・。ありがとう・・・。」
少しは元気になっていたようだ。
俺は安堵した。
この調子なら、近い内に元の関係に戻れそうだ。
例えそこから進まない関係であったとしても。
とりあえず、今の俺はそれで満足だった。
とりあえずその日は何事もなく無事授業は終わった。
が、俺は帰りに秋田につかまった。
「・・・。」
彼は黙っているが、誰よりも沈黙の似合わない男だった。
「何か言いたそうだな。」
「いや、聞きたいことはあるけど、今は止めとく。」
「どうせ、大体気付いてるんだろう?いいよ。お前の思っている通りだよ。」
「そうか・・・いやすまなかったな。」
「いいんだ。お前には世話になったし。」
「ゴメンな。お前のお気に入りのボールペン、、踏んづけて壊しちゃって。」
「その事じゃない。それはちゃんと弁償しろ。」
相変わらず、秋田は秋田だった。
俺は笑った。
この明るさが今はありがたい。
彼は全てわかった上で、バカをやってくれているのだ。
ともかく俺は人には比較的恵まれていた。
傷心の時、癒してくれる友の存在に感謝した。
きっとすぐに、いつもの日常に帰ることが出来るだろう。
俺の胸は少し軽くなった。
しばらくすると、片瀬とも元通りになりつつあった。
それでも彼女は時に以前にはない、微妙な表情をすることはあったが、告白し、胸の内を伝えてしまっている以上、以前と全く同じ姿でいるのは難しい。
それはある程度は仕方のない事と言えた。
しかし、告白を拒絶されても尚、俺の彼女への気持ちは変わらなかった。
徐々に友達の関係が自然な姿に戻って来ても、彼女の事は好きだった。
少しも気持ちが薄れる事はなかった。
「再来週のマラソン大会出るんでしょ?」
ある日の昼休み。
片瀬は唐突に言った。
「出たくないけど、単位のために・・・。はぁ、嫌だなぁ。まぁ、適当にダラダラ歩いて・・・」
「ダメだよそんな。出るからには頑張らなきゃ。」
「熱血だねぇ。何分、俺文科系だしさ。あくせく身体張る体力部門は片瀬さんに任せるよ。」
「ふ~ん。そお~。あれ?でも私の方が成績良かったような・・・?」
「う・・・。」
「ふふっ。頑張るよね?マラソン。」
「なぜそうなる・・・。」
「私は全力で走るよ? 西野君も全力で走るよね?1位・・・はあれだけど、入賞目指して。」
「人は人。俺は俺。片瀬は片瀬。」
「もう!せっかく人が鼓舞してあげてるのに!」
「だって、別に賞金や褒章があるわけじゃないしさ・・・。」
「うー・・・。じゃあ、どうしたら本気出すの?」
「そうだなぁ。う~ん・・・。デ、やっぱいい。」
俺は思い付きを言うのを途中で止めた。
「デ?何?言って!」
こうなると彼女は強い。
「で、・・・でーと・・・。」
尻すぼみな俺の声。
「・・・。」
片瀬は少し驚いた顔をした。
「あいや、いいんだ。つい。調子に乗った。悪い。」
俺は照れくささに目を逸らして言った。
「いいよ・・・。」
「え・・・?」
「デートすればいいんでしょ?いいわよ。それで本気出して、あなたが一生懸命走るのなら。」
「マジで?」
「大マジ。」
「やる。断固走る。絶対走る。俄然走る。よーし、燃えて来たーー!!!」
俺は立ち上がって叫んだ。
「凄いやる気・・・。」
彼女は驚いて俺を見た。
「早速特訓する。今日から。」
淀みなく言う。
「え?で、でも・・・。」
戸惑う片瀬。
「問答無用。俺は毎日、夕方から川原の土手で走る。」
「ほ、ホントにやるの?」
「男に二言はない。俺に火をつけたのは君だ。」
「う、うん・・・。で、どうするの?」
「とりあえず、入賞は確か10位以内か。それを目指す。」
「わ、わかった・・・。」
こうして非常に単純かつ、不純なモチベーションを得た俺は夕方一人、川原の土手を走る事になった。
一旦、家に帰り、支度をして夕暮れの空の下を走り、日が暮れる頃に練習は終わる。
片瀬が部活を終え、帰る時間に合わせていたあたり、少なくない打算が存在していた。
事実、彼女は良く帰りがけに姿を現した。
「どう?調子は。」
彼女はスポーツドリンクを俺にくれた。
「サンキュー。悪くない。思ったよりもやれそうだ。意外にスタミナはあるほうみたい。結構イケると思うよ。」
俺はドリンクを飲みながら汗を拭く。
川辺の風が気持ちよく、身体を冷やす。
「そう。ふふっ、なんかいいね。」
片瀬は楽しそうに笑う。
「何が?」
荒い息を整えながら俺は尋ねる。
「いや、私西野君がこんなに頑張ってる所、初めて見た。結構熱い人なんだね。」
「約束があるからな。ニンジンぶら下がってれば、やる気も出るよ。」
「じゃあ、楽しみにしてるね。明日の本番。」
「ああ。片瀬も。って、そう言えば片瀬はどのくらいを目指してるの?」
「勿論、優勝。女子は5㌔だし。」
あっさりと野望を口にする。
「陸上部の奴も出るのに?」
俺は驚いて聞く。
「だからいいんじゃない。」
そう言えば片瀬は体育の成績もトップクラスだった。
「勝った方が気持ちいいもん。」
「そりゃそうか・・・。ま、俺は俺なりに頑張るよ。10位以内でも、学年全体の10%に入らなきゃいけないわけだし。」
「でも、陸上部の人も出るでしょ?」
「長距離・・・って言っても8㌔だけど、大体短距離、中距離の奴が多いからね、ウチの陸上部は。そんなに強い部じゃないし。それに去年もそうだけど、必死に走ってる奴なんて運動部でも結構少ないからね。基本的にウチの学校はのんびりしてるっていうか、あんまやる気のある、熱い人がいないから。俺でも充分、付け込む隙はあるんじゃないかと。特訓の成果も上々だし。」
「頑張ればあながち無茶でもないか、入賞も。厳しい事には変わりないけど。」
「そういう事。まぁ見ててよ。」
俺は少し偉そうに言った。
「じゃ、明日。」
「うん、頑張ってね。入賞。」
「片瀬も、優勝目指して・・・」
目標が女の子よりも低い俺は少し情けなかったが、彼女は気にも留めないで、
「うん。お互い頑張りましょう。」
俺達は握手を交わした。
彼女の手は細く、柔らかだった。
しばらく彼女の手の感触を残したまま、夕暮れの中、俺は家に向かった。
走って。
秋の空は晴天、風もなし。絶好のマラソン日和だった。
しかし、俺の方はコンディションは良くなかった。
夕べ、最後の練習を頑張りすぎたのが良くなかったのだろうか、身体は重かった。
しかし、走れないほどじゃない。
なんにせよ、やるしかない。
俺は気合を入れて、家を出た。
今日は朝から、川原に集合だった。
教師や役員の生徒が慌しく、準備をしていた。
「あ、おはよう。いよいよだね。」
しばらくして片瀬がやってきた。
体操服から覗く長く白い手足が眩しい。
「おう、任しといて。って、女子が先だったよね?」
「そう、女子が午前。男子は午後。」
「一緒にやればいいのに。」
「人が多くなっちゃうからでしょ?多分。あ、それはそうと、ちゃんと応援してくれる?」
「するよ。優勝目指してるんだろ?」
「まーね。そんなに長距離は得意じゃないけど、やるからには全力でね。」
「そういうとこ、尊敬する。俺には全くないメンタリティーだ。」
「褒められてるのか貶されてるのか。」
「いや、褒めてる。がんばれ。応援するから。」
「うん!」
力強くうなずいて、笑った。
やがて、女子のスタート時刻が近づく。
ぞろぞろと、100人近い女子達がグラウンドのトラックの開始線に並び始める。
400メートルトラックを一周して、土手のランニングコースを2kmと少しを往復し、最後にもう一度トラックを一周するコースらしい。
計5km。
俺は秋田と様子を見ていた。
「片瀬なんだって?」
秋田が聞く。
「優勝目指してるらしい。」
「え?嘘だろ?そりゃ無理だよ。いくらあいつでも。」
「そうなのか?」
「だって、陸上部の長距離エースの奴もいるんだぞ。いくら片瀬が運動神経良くても、毎日何kmも走ってる奴には勝てないよ。絶対。」
「そう言われて見ればそうだな。なんでそんな大きい事言ったんだろう。片瀬。」
俺達の会話をよそに、号砲が青空の下鳴り響く。
一気に駆け出すグループ。
静かにその後を追うグループ。
早くも固まって談笑しながらダラダラと走り出すグループ。
片瀬は最初のグループだった。
先頭グループに食らいついたまま、トラックを出、ジョギングコースに向かって行った。
「すごいな。俺なんてあの時点でもうバテてるよ。」
秋田が驚いた顔で言う。
「うん。速いな・・・。」
改めて彼女の凄さの片鱗を見た気がした。
「でも、今からあのペースじゃ後半持たないんじゃないか?見ろ、先頭グループは・・・8人か。片瀬以外は陸上部と、バスケ部しかいないよ。普段から死ぬほど走ってる奴等だ。」
「そう・・・なのか・・・。」
俺は片瀬に感心する反面、不安だった。
「な、西野。見に行かないか?応援しようよ。片瀬を。」
「俺もそう思ってた。行こう。」
俺達はジョギングコースの方へ駆け出した。
先頭グループは折り返し地点から、トラックの方へ戻ってきた。残り、1kmくらいだろうか。
先頭グループがこっちに向かって走ってくる。
ジョギングコースの沿道には他にも男子の姿があった。
皆、仲のいい子、彼女、好きな子、同じクラスの子などを応援しているようだ。
「片瀬は・・・いた!まだ食らい付いてる。・・・けど、ちょっと離されてる。辛そうだ。大丈夫か?」
秋田が焦り気味に言う。
現在1位の生徒が他を20メートルほど離し、その後が第二集団。
第二集団は現在4人。
片瀬はその集団の最後だった。
いや、今はもうグループからやや遅れている。
大健闘と言えるが、顔は辛そうで足の運びも重そうだった。
このままではさらに脱落していきそうだ。
一位の生徒が俺達の前を走り過ぎた。
数秒後、第2集団も目の前を走る。
残りは約700~800メートル。
一番きつい時間帯かもしれない。
片瀬が俺たちに近づいてきた。
「がんばれ片瀬!ここを踏ん張るんだ!」
俺は気付いたら叫んでいた。
片瀬が俺の方を見る。目の前を通り過ぎる。
その瞬間、俺は片瀬と併走した。
沿道から。
「いいか、フォームが乱れてる。もっとコンパクトに走るんだ。フォームが乱れるともっと辛くなる。頑張れ。優勝するんだろ!?」
俺は片瀬と2メートルほど離れて走りながら言った。
片瀬は俺の話を聞いて、力強くうなずいた。
言葉で返事できないくらい、息が苦しいのだろう。
やがて、乱れ気味だったフォームも綺麗になっていく。
「そうだ、その調子! そのまま食らいつけ。お前以上にあいつらも苦しいんだ。ここでちゃんと走ってれば、必ず追いつける。見ろ。あいつらも顎が上がってきてるし、走り方も雑になってる。そのまま行ければ勝てるぞ!!頑張れ!!」
俺は走りながら必死に彼女に言った。
やがて、彼女はもう一度強く頷いた後、速度を速めた。
その時、片瀬は少し笑った。
そのまま彼女は走った。
俺は立ち止まり、その背中を見送った。
第二集団との差が縮まる。
抜いた。
信じられなかった。
が、第二集団の生徒達は明らかに失速していた。
「おおお?いけるんじゃない?」
秋田がこっちにやって来て言った。
「応援とアドバイスが効いたみたいだ。」
「しかし、お前・・・。熱かったな。」
「しょうがないだろ。お互い健闘を誓ったしな。って、俺ちょっとゴールの方行って来る。」
「え? あ、おい・・・。」
俺は秋田を残し、トラックの方まで走った。
コース通りに走る選手達と違い、土手を降りて直線距離を走ればこっちの方が速かった。
片瀬は必死にトップの選手を追い上げた。トラック勝負になった。
割れるような歓声。
片瀬の人気もさる事ながら、デッドヒートの行方に皆釘付けだった。
やがて、1位のランナーは勝利の歓声に包まれた。
ゴールして、座り込む片瀬。
激しい息をして苦しそうだ。
何人かの人が彼女に駆け寄ったが、片瀬は大丈夫だと言って、その人達から離れ、俺の方に歩いてきた。
まだ息は荒く、心底消耗した表情をしていた。
「お疲れ。凄かったよ。」
「ありがとう。でも、負けちゃった。最後、追いつけなかった・・・。」
彼女は寂しそうに笑う。
「でも2位じゃないか。凄いよ。信じられない。1位は陸上部の子だもん。」
「うん。確かに、良くやったとは思う。優勝するなんて言ってたけど、本当は無理じゃないかって思ってた。でも、自分を奮い立たせたかったし。」
「うん。よくやったよ。」
「んん~でも悔しい~!!!あとちょっとだったんだよ?20メートルなかったのに!ああもう~~!!」
彼女は拳を握り締めて言う。
だけど、表情は明るかった。
「本当に負けず嫌いだね。」
俺は心から感心する。
「でも、楽しかった。苦しかったけど、自分の力以上のものを出せた。普段の私だったら、もっと順位は下だった。」
「そうか?」
「うん。第二集団から離されそうになった時、ああ、もうダメだってちょっと思った。でも、その時西野君が・・・。」
「あ~・・・。」
俺は少し恥ずかしくなる。
「一生懸命、応援してくれて、励ましてくれて、ちゃんと私と前の人の走りを見てて、アドバイスしてくれたから。だから頑張れた。」
「いや、どうも・・・。」
「うん。凄く力強くて、嬉しかったよ。」
彼女は心底嬉しそうに笑った。
輝くような笑み。
俺が今まで見た彼女の表情の中で一番美しく見えた顔だった。
「ありがとう。」
彼女は丁寧に言って、頭を下げた。
「いや、いいって。でもこれで、俺も頑張らなくちゃいけなくなったね。益々。片瀬は限界を超えたんだから。」
「うん。頑張って。応援する。」
「うん。ありがとう。頑張るよ。」
俺達は握手をした。
昼休み。
これから始まるレースに備え、俺は軽く炭水化物を採っただけで昼は殆ど食べなかった。
事前に教師からあまり食べるなと説明があったが、やる気のない生徒達はいつも通り、旺盛な食欲を発揮していた。
俺の隣にも、弁当をがっつく男が一人。
「よくそんな食えるな。これから8kmも走るってのに。」
俺は呆れたように秋田に言った。
「へ?何言ってんの?俺走んねーよ。」
「はぁ?」
「これ食ったら食後の運動。優雅に秋の川原をウォーキング。」
「やっぱりか・・・。」
「お前なんで食べないの?もしかして真面目に走んの?」
「ああ。」
「嘘だろ?」
「ホント。」
「マジ?」
「大マジ。」
「どういう風の吹き回しだ?去年は俺とダラダラ歩いてたじゃんか。それにお前、今日調子悪そうじゃん。」
「調子悪くても本気で走る。去年と今年では事情が違うんだ。」
「ははぁ・・・。」
気付かれたか。
この男は勘が鋭い。
「言わなくていいぞ。」
俺は会話を拒絶した。
「応援した片瀬美樹ちゃんの頑張りに触発されちゃったりしてるわけだ。もしかして。」
意地悪そうな顔で言う。
わざわざフルネームとちゃん付けで言う辺りに悪意が感じられる。
「ノーコメント。」
俺はなおも拒絶。
「愛の力で走るわけだ。愛で地球を救っちゃうわけだ。生放送中に間に合うように、武道館目指して走っちゃうんだ。黄色いTシャツ着て。」
「サライがカラオケで十八番のやつに言われたかないけどな。」
「バカ、あれは、名曲中の名曲だぞ!?よし、聞かせてやる。あーあー。ゴホン。」
「空き地のリサイタルはいい。そろそろ俺行くから。昼も終わりだ。」
俺は歩き始めた。
「ちょ、あそこまでヘタじゃねーよ。って、おーい・・・。」
俺は秋田を置き去りにした。
今だけは彼と同じペースでいるわけにはいかない。
そろそろ身体を動かしていた方がいいか。
俺は準備運動をする。
秋田は友達と喋ってる。
「おーおー。気合入ってますねー。」
片瀬がやって来て言った。
楽しそうだ。
「うん。俺はやる。片瀬もあんなに頑張ったし、俺はやる。」
「すごーい。ホントにやる気になってる。」
片瀬は呆けた顔で俺を見る。
「前も行ったが、俺に火を付けたのは君だ。ニンジン目指して頑張る。」
「ライトマイファイヤーだね。」
「随分渋い曲知ってるんだな。俺もだけど。」
俺達は笑った。
いよいよ、スタートの時が迫る。
俺は少し興奮していた。
アドレナリンが脳に広まっていくのを感じる。
武者震いがしてきた。
スポーツにこんなに真剣に取り組もうとしているのは初めてだった。
元来、争い事、勝負事は好まない性質だったが、この時だけは違っていた。
やってやる。
やがて渇いた号砲。
俺達は走り出した。
まずは飛び出さず、様子を見る。
無理に先頭集団に合わせる事はない。
俺は例年の10位以内の人間のタイムを事前に調べ、大体把握していた。
全くその通りには行かないだろうが、かといって大きな差があるわけでもない。
人よりもタイム。
それを気にして走れ。
自分に言い聞かせた。
2km地点、調子は悪くなかった。
体調は優れなかったが特訓の成果だろうか、秋田が茶化す愛とやらの力か。
俺は快調なペースだった。
現在は30位前後だろうか、まだ、上位は先にいたが慌てなかった。
今は速くても、どうせ脱落してくる人間がいる。
女子のレースでもそうだった。
4km地点、折り返し。
流石に疲れてくる。が、まだ特別ペースは落ちていない。
俺は腕時計で確認していた。
案の定、勢いに任せて前半飛ばした人達が苦しそうに立ち止まったりしていた。
俺はそんな彼らを追い抜いていった。
今は多分、20位前後。
最後の1kmまで、どれだけ縮められるか。
俺は自分を引き締めた。
5km地点、足が重い。
まだ後3kmもあるというのに。
しかし、なんとか頑張ってはいる。
先頭を行くランナーは、まだ肉眼で確認できる。
そこから数えて、数え方が間違っていなければ16位か。
しかし、俺も少し失速していた。
俺が追い上げているというより、上位が俺以上に失速し始めているという状況だった。
6km地点、上位に変動はない。
苦しい。
練習でも8kmは走っていたが、こんなには苦しくなかった。
やはりこれが本番の厳しさ、人と競う事の難しさなのか。
熱い。
身体は汗でぐっしょりだった。
バケツの水を頭からかぶったかのようだ。
秋とは言え、まだ初秋。残暑の季節の午後の日差しは強く、午前中よりも気温が上がっている。
ジョギングコースの反対側から、向かって歩いている生徒達の姿が見える。
談笑しながら笑っている。
くそ。
ヘラヘラしやがって。
こっちはこんなに辛い思いして走ってるのに。
八つ当たり。
去年の俺も同じだったのに。
「お?西野か!頑張れー!」
向こうから来る秋田だった。
彼も他の友達とふざけていたが俺を見ると励ました。
少なくともその応援は真剣だった。
俺は小さくうなずく。
そうだ。
人は人、俺は俺だ。
秋田が歩いていても、俺が怒る道理はない。
秋田だって俺みたいな理由があれば真面目に走っていたかもしれない。
俺は他の事に気をとられるのを止め、集中を心がけた。
やがて、10位から15位の俺までの間に変化がおきた。
1位から5、6位くらいまでは陸上部をはじめ、各運動部のエース級の選手達。
それには到底適わないし、彼らのタイムやペースも大きく崩れる事はないだろう。
所詮、俺のような付け焼刃とは基礎体力が違う。
それは解かっていた。
しかも彼らはトップを目指し走っている。
必然、競争も厳しく、勝利への執着心も高い。
しかし、それ以降の10位前後となると話は変わってくる。
彼等も優れた体力を持っているだろうが、トップの選手達には適わない。
それは理解している。
しかし、理解しているからこそ、トップを望めない事をわかってくると、モチベーションが下がる。
こんなに苦しい思いをして、本気で走っても俺は10位前後かと。
俺が狙うのはまさにそこ。
彼らの心の綻びだった。
他力本願だったが、運動部でもない俺が食い込むにはそれしかなかった。
俺は10位でいい。
10位が最大、最高、最良の望みで、10位は俺にとって1位に等しかった。
しかし、今走っている10位前後の彼らはどうか。
きっとそうではないだろう。
事実、彼らは先頭集団からかなり遅れ始めた。
苦しい。
意識が朦朧とする。
しかし、一人つかまえた。
抜き去る。
15位。
辛い。
早く終わりたい。
でも勝って終わらなきゃいけない。
また一人交わす。
14位。
顎が上がってくる。
フォームに綻びが見え始める。
くそ。
しっかりしろ。
ここで負けてどうする。
更に一人を追い越す。
俺に抜かされたその彼は、走るのをやめた。
よし、この辺のランナー達は厭戦気分に蝕まれ始めている。
13位。
あと1.5kmか。
ここが苦しい所だ。
耐えろ。
堪えろ。
我慢しろ。
俺の目の前に二人の背中が見える。
あと三人。
こいつらを抜かせばあと一人だ。
ペースはもう、上げられなかったが、落とす事だけはしないように努めた。
じりじりとその二人に迫る。
焦るな。
彼らのフォームはバラバラだ。
自滅を待て。
並ぶ。
しかし、彼らにペースを上げる余力はなかった。
俺以上に疲弊している。
並び、抜いた。
11位。
あと一人!
現在7km。
俺に10位を明け渡す予定の男は30メートルほど前。
もうゴールのトラックが見えている。
ここで縮まらなかったら勝てない。
しかし、差は縮まらない。
彼も疲れていたようだが、俺も限界だった。
もう走っているのがやっとだった。
この30メートルの差が永遠に埋まらない溝のように、重たく俺の心にのしかかり、気持ちを弱気が汚染していった。
闘争心は潰えつつあった。
ダメか・・・。
考えてみれば、この辺りを走っている選手は皆運動部だった。
そういえば、俺の前を行く男はサッカー部のレギュラーだった。
名前は知らないが、顔くらいは知っていた。
帰宅部の俺が学校から帰る頃、グラウンドで練習をしている彼の姿を何度か見たことがある。
勝てるわけないじゃないか。
毎日走り回ったり、トレーニングをしているような人間に。
俺なんかが。
土台、勝てるレースではなかったのだ。むしろここまでですら奇跡的な僥倖と言えるのかも知れない。
大体なんで俺はこんなに苦痛を抱え、必死に走っているのか。
走らなくていけないのか。
なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだ。
そもそも勝負事は好きじゃないのに。
馬鹿馬鹿しい。
俺は走りながら、俯いた。
その直後。
「西野君!頑張って!下見ちゃダメだよ、顔上げて!!」
「え・・・。」
「ほら、走って!入賞するんでしょ!約束でしょ!」
か・・・たせ・・・?
走る俺の斜め前から必死に叫ぶ彼女の姿が見える。
彼女は沿道から声を掛けた。
さっき俺がしたのと同じように。
「前の人だって苦しいんだよ!?諦めちゃダメ!!」
簡単に言うなよ・・・。
大体俺がどれだけ辛いか、片瀬にはわかって・・・
そうか。
わかってるんだ。
さっきまで走ってたんだから。
彼女も。
しかも彼女は俺よりもっと前を走ってたんだ。
優勝を狙っていたんだから。
もっと辛かったかもしれない。
あの時の俺は必死に彼女を応援した。
心から。
今の彼女も同じ気持ちだろうか。
「フォーム崩れてるよ?しっかりして!ここで挫けちゃダメ!あと一人だよ!?」
片瀬は叫ぶ。
悲痛な表情。
今の俺ほどじゃないだろうが。
片瀬が見ている。
応援している。
支えてくれる。
それは何よりも心強い事だった。
彼女の前で、だらしない姿は見せたくない。
しかも、自分がやると豪語したのだ。
その目の前で諦めるわけにはいかない。
俺は必死に自分を奮い立たせた。
もう少しだけもってくれ。自分の身体に念じた。
30メートルの差は未だ縮まらない。
なら詰めるしかない。
俺は限界に挑んだ。
ここでペースを上げるのは不可能に思えた。
片瀬が見ていなければ。
前を走るサッカー部の彼は俺の存在に気付いている。
何度か後ろを振り返っていた。
現在10位の彼は入賞を意識しているだろう。
今までとは違う、表彰の掛かった戦い。
彼は名誉を、俺はデートを賭けて走っている。
何だかわからないが、俺の方がいい物を賭けて走っているという根拠のない自信があった。
徐々に差が詰まっていく。この場合は追う方が有利だ。
逃げる者と追う者、王者と挑戦者、ライオンとシマウマ、警察と泥棒の心理。
捕まえてやる。
彼我の距離は20メートル。
彼の走りに明らかな焦燥が窺える。
(そうだ、焦るんだ)彼は何度も振り返るようになり、俺は駆け引きに出た。
本当は口から心臓が飛び出そうなほど疲弊しきっていたが、敢えて涼しい顔をして淡々と走った。
そしてそのまま距離を詰めていく。
更にペースを上げた。
10メートルまで詰めた。
そこで一旦ペースを落とし、その距離のまま走る。
彼は詰められるのを嫌ってペースを上げる。
かかった。
また20メートル程距離は開くが、予想通りの展開だった。
そのまま開いた距離を詰めずに平然と走る。
やがて彼の走りに変調が訪れる。ペースが乱れる。失速と加速を繰り返すようになる。
限界だな。
俺は距離を詰める。
並んだ。彼の顔に恐れの表情が浮かぶ。
俺は一瞥しただけで、気にしない振りをする。
賭けだった。
普通にやっていては勝てなかった。
駆け引きは裏目に出れば自分が疲労するだけだった。
彼に余力があったら成功しなっただろう。
一か八の綱渡りだった。
彼は限界だったようだ。
並んだ。
もうそれでいい。
彼に更にペースを上げる力はない。
事実、彼は失速し始めた。
俺は遂に目標の順位に到達した。
残りは僅かな距離とトラックを一周するだけ。
後ろを振り返る。
が、後続のランナーが気になったわけじゃない。
沿道の彼女を探した。
何か叫んでいる。
大袈裟に飛び上がって喜んで手を振っている。
俺がサッカー部の彼を抜かした瞬間も見ていたようだ。
(子供っぽい所があるんだな・・・。)
うれしかったけれど、少し可笑しかった。
誇らしい気持ちだった。
かっこいい所を見せられたかな。
再び前を見据え走る。
さっきまで争っていた彼はもうかなり離されていた。
まず追いつかれる事はないだろう。
俺は勝利を確信した。
刹那。
身体が重くなる。
忘れていた疲労が鉛のように圧し掛かる。
思い出したように初秋の太陽と汗に不快感を覚える。
(どうした、俺の身体?あと少しなんだ、もってくれ。頼む!)
しかし、歩は進まない。
ペースが落ち、フォームが乱れる。
さっきの無理がたたったのか、駆け引きの時に無理にペースを上げたのが。
これじゃ本末転倒じゃないか、ミイラ取りがミイラになるなんて!
視界がぼやける。動悸が激しい。体中の細胞と組織が休息を求めているかのようだった。
「う・・・。」
俺は口に手を当てた。
おかしい、気分が悪い。
走っている時に感じる苦しさとは種類が違っていた。
俺の走りはよろけ始めた。
アスファルトのコースから逸れ、雑草の茂る芝生の方にずれていった。
やがて、走れなくなった。
腹痛がする。
横っ腹が痛い。
俺は膝を付き、芝生の上に力なく崩れるように倒れた。
さっきまで競っていたサッカー部の彼が、俺の事を見下ろしながら走り去っていった。
「あ・・・待て・・・。」
俺は呻くように彼の後ろ姿に手を伸ばす。
が、腕は望む高さまで上がらず、力なく地面の雑草を掻くだけだった。
彼の姿が遠くなる。続いて後続のランナー達が俺の横を走り去る。
皆、一様に俺の姿を見下ろしていた。
憐憫と同情の入り混じるような複雑な表情。
しかし、誰も手を差し伸べる事はない。
当たり前だが。
絶望。
奈落の底に叩き落された咎人の様に。
もう二度と這い上がる事は出来ない所まで堕ちたと知った時、人はこんな気持ちになるのだろうか。
時は、俺だけを置き去りにして無情に流れていった。
目の前が暗い。
青臭い草と土の匂いがする。
「はっ、はっ・・・うぅ・・・。」
呼吸が不規則になる。
酸素を体中が求めているが足りない。
意識が遠のく。
大地がぐにゃりと歪んでいる。
遠くから足音が聞こえる。
何故かランナーの足音とは違って俺に駆け寄るような足音。
「西野君!?ど、どうしたの!?大丈夫!?」
(ああ、片瀬か。倒れてた所も見てたのか。くそ。情けない。見ないでくれ、こんな無様で惨めな姿を。お願いだ!)
俺は心の中で念じた。
悔しさに歯を食いしばる。
が、口に力が入らない。
口の中はカラカラに渇いていた。
目を開けていられなくなってきた。
暗い闇が優しく俺を手招きして誘っているようだった。
音と色と匂いの感覚が遠く、薄くなる。
何も聞こえない、何も見えない。
どこかに堕ちていくようでもあり、昇っていくようでもある不思議な感じ。
目の前は黒く、頭の中は白かった。
(片瀬・・・応援してくれたのに・・・ごめん。)
最後に意識したのはそれだった。
やがて、俺は気を失った。
「ぅ・・・う・・・?」
天井が見える。
見たことのない、茜色の天井。
蛍光灯は消えていた。
夕方である事は理解できた。
「気が付いた?」
「あ、れ・・・?」
白衣を着た女性がそこにいた。
中年の、物腰の穏やかな人だった。
「えーと・・・。」
俺は状況がよく理解出来てない。
「落ち着いて。そのままでいいから聞いて。」
優しく諭すように言う。
「はい・・・。」
俺は従った。
「気分はどう?気持ち悪いとか、苦しいとか。」
「特には・・・ないです。」
「そう?じゃあ、私の手を握ってみて。」
「はい・・・。」
俺は出された手を握る。
「少し力を入れてみて。」
「はい。」
その手は暖かかった。
言われた通り、少し力を入れてみる。
「うん。じゃ、起き上がれる?」
「はい、・・・よっ・・・と。」
俺は上半身を起こす。
「どうやら大丈夫そうね。ああ、順序が逆になっちゃったわね。あなた、倒れたのよ。マラソン大会の途中に気を失って。」
「ああ・・・そう・・・だ・・・。」
思い出した。
「で、学校の先生の車でこの病院に連れて来たんだけど、今は夕方。ずっと寝てたの。」
「病院・・・。」
ようやく事態が飲み込めた。
「じゃあ、ついでに2、3質問するわね?」
「はい。」
名前や住所、生年月日などを聞かれ、答えた。
医師の先生は書類に目を通し、確認している。
「ちょっと前から練習してたみたいだけど、昨日も走ったの?」
「はい。」
「どのくらい?」
「10km・・・くらい。」
「普段運動は?部活とか。」
「いえ・・・やってないです。」
「昨日の夜は良く眠れた?」
「あまり・・・。」
「今日、走る前の体調は?」
「あまり、良くなかったです。」
自分で答えていて恥ずかしくなってきた。
こんな状態で無理すれば倒れるのも無理ないか。
「私や、他の人達が何が言いたいか解かる?」
「はい。すいません・・・。」
「まぁ、どうやら大丈夫そうね。疲労と酸欠と軽い脱水症状で倒れたのよ。調子の悪い所に無理が重なって。でも、もう大丈夫だから安心して。病気とかじゃないから。まぁ、今は大人しくしてなきゃダメだけど。」
「はい。」
それから簡単な検診を受けた。
血圧や脈も測った。
いずれも正常だった。
「じゃあ、今日は大事をとってここに泊まっていく?どうする?どちらでもいいわよ。」
「あ、か、帰ります。」
「そう?まぁその辺は親御さんとも相談しなさい。あと、友達も来てるみたいだけど、さわいじゃダメよ?」
「はい・・・。」
友達・・・。
誰だろう。
「じゃあ、私は行くけど、もう友達や親御さんに会っても大丈夫?」
「はい。」
「じゃあ、呼んで来るわね。」
そう言って先生は病室を出て行った。
一人になり、がらんとした病室を見つめる。
一人部屋のようだ。
なんだか湿っぽいところだった。
やがてその後、母親と、担任、校長が部屋に入ってきて、俺を気遣った。
俺はなんともない、帰ると言ったが、皆今日は泊まれと言う。
仕方ないので言う通りにした。
明日は学校に行くと言った。
身体は少し痛かったが、怪我もなかった。
とりあえず、俺は全員に迷惑かけたことを詫びた。
3人はとりあえず俺が大丈夫な事に安堵し、俺の謝罪に納得し、部屋を出た。
母親は俺の着替えやら制服や鞄を取りに戻った。
思ったよりも大事になってしまっていたようだ。
やがて、ドアをノックする音。
「はい、どうぞ。」
「ああ!手術は成功だったんだね、一郎兄さん!僕の事、思い出した!?」
「そんな弟がいた覚えは一切ない。大体笑えないぞ、事と次第によっちゃ」
秋田だった。
まったくこいつは。
俺は笑った。
「まぁまぁ、でもビックリしたぞー?いきなり倒れるんだもん。」
「・・・。」
「なんかさ、人が何人かいてさ、その後教師が来て、お前を車に乗せてった。」
「そうなのか・・・。」
「そういや片瀬もいたな。俺が駆け寄った時はもう何人かいたけど、片瀬が最初に駆け寄ってたみたいだよ。なんつーか、初めて見たな、あんな片瀬。凄いうろたえてた。」
「そう・・・か・・・。」
何だか申し訳ない。
自分で走るって言っといて、心配させてしまって。
「あ、忘れてた。ちょっと待ってろ。」
「?」
「へへっ・・・いいから待ってろって。すぐ戻ってくるから。」
ニヤついて部屋を出て行った。
しばらくしてドアが開く。
ノックもしないで開けるあたり、秋田が帰ってきたのだろう。
が、その後ろ。
「片瀬?」
秋田の後に、俯いておずおずと彼女が入ってくる。
「へへ、俺達一旦家に帰ってから病院で待ってたんだよ。お前の目覚めを。」
「あ、そうか・・・。」
言われてみれば二人とも私服だった。
俺は体操着だったけど。
「・・・」
片瀬は俯いて立っている。
目を逸らし、どうしていいか解からないといった様子だった。
「・・・。」
俺も何を何て言ったらいいのか解からない。
沈黙。
「あ~、じゃあ、俺行くから。」
秋田が言う。
「え?もう帰るのか?」
「いや、用を思い出して。」
「用?」
「そろばんのお稽古行かなきゃ。」
「やってねーじゃん。」
「あ、間違えた。バレエのレッスンだ。」
「嘘にも程がある。」
「プリマドンナ目指す事になったんだよ。家の都合で今日から。」
「どんな家だ。それにお前んちスーパーじゃん。」
「世を忍ぶための、表の顔はな。」
「もういい。好きにしろ。」
おそらく俺と片瀬の間にある事情を察して気を利かせているのだろう。
「悪いな。まぁ、二人で仲良くな。じゃあね、片瀬。」
「あ、う、うん。」
彼女は名前を呼ばれてようやく喋った。
「じゃあな。明日は俺学校行くから。」
俺は秋田に言った。
暗に、健康だから心配するなと言う意味を含ませたつもりだった。
「ああ。おっと、お大事に。」
どうやら伝わったようだ。
「どーも。」
秋田は出て行った。
そして静寂。
片瀬はまだ俯いて立ちつくしている。
「と、とりあえず座りなよ。」
俺はベッドの脇にある椅子を勧める。
「あ・・・うん。」
片瀬はそれに座った。
俺はベッドに座って彼女を見詰めた。
いつもの覇気が全くない。
萎れた花のように身体に芯が通っていなかった。
やがて。
「ゴメン・・・ね・・・。」
「え・・・?」
何故謝るのか解からない。
「私のせいで、西野君、倒れちゃって・・・。さっき秋田君から聞いた。今日、調子悪かったって・・・。」
「あのバカ、余計な事を。いや、それは・・・」
否定しようとしたが、
「ううん。私が、無理に走らせた。元々、興味なかったのに全力でやらなきゃダメだよなんて。デート・・・するなんて言って無理やりやる気出させて。自分がちょっと頑張れたからって西野君にまで全力出させて。今日、本当は調子悪かったのに・・・。」
今にも泣き出しそうな彼女。
「私、自分の事しか考えてなかった。西野君が頑張って、走って、全力出して・・・。そんなの、人に言われて頑張ることじゃなかったのに・・・!それで、こんなことになっちゃって、失神までさせちゃって・・・。」
遂に涙が零れ落ちた。
嗚咽する。
どうして俺は彼女を泣かせてしまうんだろう。
そんなつもりはさらさらないし、いつも幸せでいて欲しいと、心から望んでいるのに。
胸が痛んだ。
「違うよ。片瀬は悪くない。」
「でも・・・!」
「いいから、ちょっと話を聞いてくれないか?」
優しく問いかける。
「・・・。」
無言でうなづく。
俺は続けた。
「まぁ、きっかけを作ったのは片瀬だよ。俺に本気で走って、って言ったのも片瀬。それは間違いない。」
「うん・・・。」
彼女はすまなさそうに頷く。
見てるこっちの方が悲しくなるくらい痛々しい。
「でもさ、走ったのは俺じゃん。」
「・・・。」
「片瀬の話に乗って、デートを見返りにして、特訓して、本番に臨んで、本気で走って倒れたのも俺。」
「でも、それでも、私があの時応援しなければ、倒れるまで無理する事はなかったかもしれないし・・・。」
「違うよ。」
「え・・・?」
「俺な、あの時凄く嬉しかった。」
「・・・。」
「結果的に倒れて、まぁ、リタイアっていうかっこ悪い結果だったけど、多分、本調子の時だったらあのまま10位でゴールできてた。あの応援のお陰で、一時的にでもあのサッカー部の奴を抜けたんだよ。片瀬の励ましがなかったら、無事ゴールしてたかもしれないけど、10位は無理だった。彼は抜けなかった。絶対に。今日は、俺の失敗。敗因は体調悪いのに無理したから。でも、片瀬の応援は間違ってなかった。だって、限界だと思ったもん、あの時。でもそこから更に一歩、前に進めた。結果だけ見れば俺は失格だけど、無意味じゃなかった。自分でも驚いたよ。応援がこんなに心強い物なのかって。」
「・・・。」
「な?わかったらもう自分を責めるなよ。それに、俺はもうなんともないんだからさ。」
「・・・。」
「どうしたの?」
俺は黙り込んでいる片瀬に聞いた。
「かっこ悪くなんかないよ・・・。」
「え・・・。」
「凄く、かっこ良かった。実際、厳しいんじゃないかって思ったけど、サッカー部の人を抜いた時は信じられなかった。本当に興奮したし、嬉しかった。飛び跳ねて喜んじゃった。」
「ああ、あれ。ふふ、見てたよ。」
俺は笑って言った。
「でもね、誰の応援でも良かったわけじゃない。」
「え?」
「片瀬の応援だったから。絶対抜いてやろうって思ったよ。あの時。片瀬もさ、俺の応援でスパートしたじゃない?それで勇気付けられたって言ってたし、それに応えなきゃってのもあったけど、それ以上に・・・。」
「それ以上に?何?」
「あー・・・その・・・片瀬だったから、かっこいい所を見せたいとか、見てる前では諦められないとか、思ったわけですよ・・・。僕は。」
照れながら言った。
「あ・・・」
赤くなる彼女。
「ああ、ごめん、変な事言って。また困らせちゃうよな、こんな話。」
彼女は沈黙して顔を伏せた。
何かを思案しているようだったが、やがて意を決したように、
「あ、西野君・・・?」
「何?」
「あのね、聞いて欲しい事があるの。」
「?いいよ?」
「前に、その、何人かの人が私に告白してきたけど、全部断ったっていう話、覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。」
俺も断られたけど。
とは言えなかった。
「前にも言ったけど、断った人の中には良さそうな人もいたの。真面目そうな。」
「うん。」
「でもね、何人かの人は、私に断られてからすぐ他の人にも告白して、付き合ってたの。」
「ああ。そうなんだ。」
「私、思ったの。あの人達は、本当に私の事を好きだったのかって。どうして、そんなすぐに他の人を好きになって、付き合えるんだろうって。そんなに簡単に好きって気持ちは変わっちゃうのかなって、思うの。」
「うん。」
「それで、怖くなったの。真面目そうな人もいたけど、この人もそうなんじゃないかって。ここでOKして付き合っても、この人もすぐ心変わりしてしまうんじゃないかって。それで、私は断るようにしたの。全部。...怖かったから。気持ちが変わってしまうのが。本当に、本当にね? 本当に好きなんだったら、そんなに簡単に気持ちは変わらないんだよ。減ったり、薄れたりする事はあるかもしれないけれど、すぐにパッと点いたり消えたりするものじゃないんだよ。本当に・・・愛しているなら。真剣なら。家族の愛情や、友情だってそうでしょ?ちょっと嫌な事があったり、喧嘩したりしても、仲直りしようと努力したりするし、いきなり絶交や、勘当したり、家出したりしないでしょう?」
「うん。そうだね。」
「なのに、相手に拒絶されたからって、告白したその舌の根も乾かない内に、すぐに他の人の所へ行っちゃうなんておかしいよ。私は好きな人に断られてもそんなにすぐに忘れられない。それは性格の違いかもしれないけど、好きな人に拒絶されたら普通は落ち込むよ。しばらくは。」
「ちょっと、いい?」
「何?」
「その、片瀬に告白した人って、すぐに他の人と付き合ってたんでしょ?」
「うん。」
「告白してからどのくらいで、他の人と付き合ってたの?」
「3日、経つかたたないか・・・くらいだったと思う。」
「そりゃ凄い。」
フットワークのいい奴もいるもんだ、世の中には。
「その人を見て、他の人のも断るようになった?」
「うん。ちょうど、1年前くらいかな。私がこの学校に転校してきてすぐくらい。」
「なるほど。大体解かった。」
「え?」
「多分、そいつは外見に惚れたんだな。片瀬の。いや、惚れたというか、気に入っただけというか。」
「どういう事?」
「そいつと面識あった?クラスが一緒だったとか。」
「ううん。知らない人だった。」
「やっぱりか。いや、多分、推測だけど、可愛い子がいたからとりあえずモノにしてみたかったんじゃないかな。だって、転校してきてすぐで、しかも片瀬とろくに面識もないのにいきなり好きだって、そりゃ外見しか見てないよ。きっと。」
「やっぱり、そう思う?あ、いや、私が可愛いとかじゃなくて・・・。」
「ははっ、謙遜するなって。実際可愛いんだから。」
「うう・・・あ、ありがとう・・・。」
泣きながら照れてお礼を言う彼女。
可愛い人だと思った。
改めて。
「どうも。でだ、それでそいつの事は断ったのはどうして?」
「え・・・だって、良く知らないし。いきなり言われても困るし、とりあえず付き合ってみればいいじゃん、って言ってたけど、そんなに簡単な事には思えなかったから・・・。」
「聞けば聞くほどどうしようもない奴だな。だんだん腹立ってきた。」
「そ、そう?」
「そうだよ。だってさ、さっきの片瀬の話の続きだけどさ、君の言うとおりだよ。そんなに簡単に点いたり消えたりしないんだよ。気持ちは電球じゃないんだから。本当に真剣なら。俺だって、片瀬に断られたけど、しばらく辛かったもん。立ち直るの結構時間掛かったし。」
「ごめんなさい・・・。」
「あーいや、謝らなくていい。だってそれはしょうがないじゃん。」
「・・・。」
「でもね、断られたからってさ、いきなりなくなったりしないよ。現に今だって・・・あ・・・」
「今だって?」
「あ、いや、いい。」
照れくさくなった。
「言って?」
「だって、今更言った所で・・・さ・・・」
「それでもいいから。お願い・・・。」
「う。わ、わかったよ・・・。」
俺は逸らしていた視線を彼女に合わせ、
「今だって、す、好きだしさ・・・。」
「本当に?」
「ああ、当たり前だ。大体デートして欲しかったからあんなに走ったんじゃないか。特訓までして。」
「あ、そ、そうだよね。」
「おいおい、忘れてもらっちゃ困るぞ?あれがなきゃ、こんなに頑張らなかった。たとえば、他の人が頑張ればデートしてくれるって言われてもやる気にはならなかったよ。」
「そう?」
「そう。まぁ、最後の方はデートがどうだとか、そんな事忘れてたけどね。片瀬との約束を果たしたい。片瀬が頑張ったから俺も頑張りたい。なんとか片瀬の前でかっこいい所を見せたい。情けない所は見せたくない。それだけしか考えてなかったよ。まぁ・・・結果は非常に無様でしたが・・・。」
俺は自虐気味に笑って言った。
「そんな事ない・・・。」
「え?」
「そんな事ないよ!かっこよかったもん。倒れてまで真剣に、倒れるくらい必死にに頑張ったんだもん。私なんかのために、無理してまで・・・。」
「・・・。」
「今までだって、西野君の気持ちを嘘だと思っていたわけじゃないよ?でもね、私、怖かった。この人も、真面目な人だけど、結局あの人達みたいにすぐ変わってしまうんじゃないかって。その時だけの、ちょっといいなって思ったくらいの気持ちで言ってるんじゃないかって。どうしても確信が持てなかった。西野君はその人達とは違うのに・・・。」
「・・・。」
「でも、今、今日の事があって、ああ、やっぱりこの人は本気だったって。嘘じゃなかったって。こんなに私なんかのために頑張って走って、倒れるまで・・・必死に・・・うぅ・・・。でも、私は試しちゃった。西野君の事を本気で信じてなかった。だから、マラソン大会で本気で走って、なんて言っちゃった・・・。」
さっきよりも勢いを増した涙が白い頬をを伝う。
でも、今は慰める時じゃないと判断した。
彼女の話を聞かなくてはいけない時だと。
「う・・・デ、デートとか、そういう事を言ってくるかもって・・・何となく思ってた。それで、練習して、頑張ってる西野君を見てるのが楽しかった。う、嬉しかったの。ああ、私のために頑張ってる。本気なんだなって、いい気分になってた・・・。でも、そのせいで西野君が・・・倒れちゃって・・・私、どうしようって思った。私の勝手な気持ちのせいで、もし、大変な事になったらどうしようって。告白を断って、傷つけて、落ち込ませて、今度は体調悪いのに必死に走らせて、最後には失神させちゃって、なにかあったらどうしようって・・・。私、なんて酷い事ばかりしてるんだろうって・・・。それで・・・う・・・うぅ・・・。」
「・・・。」
「ゴメンね・・・。こんな人間なの、私。ホントはね、西野君に好かれるような子じゃないんだよ?嫌になったでしょ?」
「今は?」
「え・・・?」
「今は、信じてくれるんだろう? 俺の気持ちを。」
「え?あ、う、うん・・・信じる。ホントだよ?」
「じゃあ、こっち向いて?」
「あ、え?」
そう言って、俺は彼女の方に向き直り、彼女の方を両手で掴んでこっちを向かせた。
「あ・・・。」
彼女は驚いて、俺を見る。
泣き腫らした目。
それでも彼女は綺麗だった。
むしろ、涙がさらに彼女の美しさを引き立てているように思えた。
「俺、君の事が好きだよ。今でも、変わらず。いや、あの時よりもっと。ずっと。」
「え?」
見開かれる彼女の瞳。
「俺と、付き合って欲しい。」
あの時とは違い、今度は穏やかな、落ち着いた気持ちだった。
「ええ?だ、だって、嫌になったでしょう?嫌いになったでしょう?私の事・・・。」
「誰がそんなこと言ったの?」
俺は笑って言った。
「だ、だって、私西野君を試すような事したし、前に告白して貰った時だって、西野君の事信じてなかったんだよ?」
「今は信じてるんだろう?」
「そう・・・だけど、だってあんなに走らせちゃって、倒れるまで、病院に運ばれるほど。そ、それに・・・。」
「それに、何?」
「えーと、えーと・・・。」
「どうにかして否定材料を探そうとするなって。卑下しないの。自分を。」
笑って言う。
「私なんかでもいいの?」
「あのな、試すような真似は確かに良くないが、仕方ないだろう?そんな事情があったなら。そんな事を何回か経験してりゃ、疑い深くなるのも仕方ないじゃん。でもそれで、疑われて嫌だと思う人もいるかもしれない。けど、本当に好きだったら相手の事を許してあげられるはずだ。多少の事は。片瀬は好きな人の事でも何も許してあげられないの?」
「・・・。」
強く首を振る彼女。
「で?」
「え・・・?」
「どうですか?僕は。ダメですか?」
「う、嘘じゃないよね?」
「片瀬がそう思ったんだろ?」
「う、うん。」
「じゃあ、片瀬が決めるんだ。自分の意思で。俺という人間を判断した上で。」
「ええと・・・。」
少しの沈黙。
「わ、私、今まで誰とも付き合ったことないから、迷惑かけちゃうかも知れないよ?」
「俺もだからお互い様だ。」
「あ・・・そうか・・・。」
「うーむ、まだるっこしいな。焦れてきた。よし、最後な。もう一回だけ言う。それに答えてくれ。それに片瀬が答えなかったらこの話はナシな?」
俺は強気に出た。
このままじゃ話が進みそうにないから。
それに何故か、強い確信があった。今度は大丈夫だと思えるような。
「ええ・・・?ちょ、ちょっと待って・・・。」
「だーめ。イエスかノーで返事して。沈黙はノーな?」
「で、でも・・・。」
「問答無用。では最後。行きます。」
「ああ・・・。」
うろたえる彼女。
オロオロしている。
それも可愛い。
俺は少し意地悪かもしれない。
「好きだ。俺と付き合ってくれ。」
「・・・。」
「3・2・1・・・」
カウントする俺。
やがて彼女は、
「ぃ・・・」
「聞こえない、やり直し。俺と付き合ってくれ。」
「は、は・・・い・・・。」
「イエスだね?」
「う、うん。」
「いいんだな?」
「は、はい。」
「片瀬さんは俺の彼女、俺は片瀬さんの彼氏って事になりますが、いいですね?」
「いい・・・です・・・。」
「じゃあ、片瀬からも改めて俺にお願いして貰えない?」
「え?」
「出来るだろう?付き合うんだから。」
なんだか片瀬を苛めたくなる。
こんなにしおらしい子だったのか。
「あ・・・うん。えーと、至らない所もある・・・ありますが、わ、私の事を・・・宜しくお願いします・・・。」
そう言って彼女は膝の上に手を付き、深々と俺に頭を下げた。
「ぷっ・・・あははははは!」
「え?ど、どうしたの?」
「いや、凄い古風だね、いつの時代の人かと思ったよ。あははは。ふつつかものですが、ってやつだな。あはは。」
「ああ・・・うう、ひ、ひどいよぅ・・・。」
恨めしげに俺を見る俺の彼女。
「ごめんごめん。いや、でも良かった、うん。ようやく・・・だな。」
「うん。」
「そう言えば聞いていい?」
「え?な、なに?」
「片瀬はOKしてくれたけど、俺のこと好きなの?」
「あ・・・う、うん・・・。」
「本当に?」
「ほ、本当・・・です。」
何故か敬語な俺の彼女。
「いつからさ?」
「え、あ・・・。ほ、本当は・・・。」
モジモジしながら言う。
「うん。」
「前に告白してくれた時には、もう・・・好きだった・・・と思う・・・。」
恥ずかしさに耐えられなくなったのか、言い切った後は下を向いてしまった。
「そういう事か・・・。」
「え?」
「いや、わかったよ。なんであの時、君が泣いてたのか。好きだけど、信じるのが怖くて、自信がなかった。だから断らざるを得なかった。本心ではOKだったけど。で、本気かどうか確かめたくて、マラソン大会の話を持ち掛けて、確認したかった。断られても尚、好きでいてくれるかも知りたかった。って、事でしょ?」
「うん。全部その通り・・・。」
「遠回り・・・したな。俺達。」
「うん・・・。ごめんなさい・・・。」
「いや、もういい。願いは叶ったから。もういい。今が、これからが大事。それに、思えば前のことも無駄じゃなかった・・・と思う。前に断られた事が今、受け入れて貰えた事に繋がってるんだと思う。そう思わない?」
「うん・・・思う。」
「あのね?ひとつだけいい?」
彼女は小さな声で言う。
「何?」
「その、お願いなんだけど・・・。」
「いいよ。言ってみ。」
「嘘・・・つかないで欲しいな。私が、言うのもなんだけど・・・。やっぱり、信じていたいから。ずっと。」
「まぁ、それだけ嫌な思いをしてきてるからね、ろくでもない奴のせいで。うん。いいよ。約束する。」
「うん。ありがとう。」
柔らかな笑顔。
見たかった笑顔。
「覗きの時、嘘ついたような気もするが、あれはナシな?」
「え?あ、あの友達庇ってついたやつ?」
「そう。あの時はまだ付き合ってなかったし。」
「うん。あれは仕方ないもんね。ふふっ、思い出しちゃった。...でも、あれが始まりなんだよね。私、あの時、真面目な、いい人だなって思った。」
「そうなの?」
「うん。それから感想文のことがあって、見学とファーストフードで喋ったのがあって、その頃かな?あ、この人いいかもって思ったのは。」
「俺と同じ頃だったのか。意識し始めたのは・・・。」
思わぬ偶然に嬉しくなる。
「そう。だから、最初の告白のとき、見学した帰りの日から好きになったって言われて、ドキッとした。交換日記しようって言った時には、多分、もう・・・好き・・・だったと思う・・・。」
「そうか。嬉しいな・・・。」
「ふふっ、ありがとう・・・。」
この上なく、優しく甘い時が流れる病室。
「そうだ、肝心な事忘れてた。あーゴホン。」
わざとらしく咳払いをする。
俺なりの決意の準備だった。
「?」
きょとんとした顔で見詰める彼女。
「これからは・・・片瀬・・・じゃなくて、み、みき・・・。」
再度の告白よりもよっぽど緊張した。
「あ・・・名前・・・で?」
はにかむ美樹。
「嫌だった?」
恐る恐る聞く。
「ううん。嬉しい・・・。」
「じゃあ、かた・・・じゃない。美樹も呼んで?」
名前を呼ぶだけなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのか。
それは多分、特別な事だったから。
呼び名の変化が意味するものが。
「ひ、ひさし・・・くん。」
遠慮がちに、初めて俺の名を呼ぶ美樹。
「・・・。」
俺は黙った。
この愛しさを言葉で表現するのは無理だと思った。
言葉で今の気持ちを完全に表すことは、未熟な自分には不可能だと理解した。
だから。
ベッドの淵に腰掛ける。
裸足の足に病室の床は少し冷たかった。
美樹との距離が殆どなくなる。
窓から差す夕日によって、茜色に染まる俺と美樹と部屋と世界。
椅子に座っている彼女の肩を優しく掴む。
しばし見つめ合い、額を合わせる。
互いの鼻が当たる。
「くすぐったい・・・。」
美樹は照れて言うが嬉しそうだ。
美樹の瞳に俺が映る。
が、俺の姿は消える。
彼女が目を閉じたから。
涙の跡が残っていたが、もう今は涙を流させる事はないだろう。
俺も美樹に倣って目を閉じる。
優しく手を握る。美樹が握り返してくる。
近づく身体と、顔と、唇。
そして。
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